手負いの鷲は迷子だから

 ―――約二ヶ月前のことだ。
 数日続いた雨のせいで路面状況が悪かったらしく、スリップした前の車とその後方を走っていた彼の車が運悪く衝突。車体がいとも容易くひしゃげてしまう程の強い衝撃が彼を襲った。
 助け出されてすぐ、病院に搬送され、出来る限りの治療を施したのだが、彼は目を開けることなく静かに息を引き取った。
 駆けつけた彼の両親から涙ながらに酷く罵倒された気がするが、こちらも気が動転していて、何を言われたのか何を言ってしまったのか。あまり、覚えていない。
 その後は涙も渇かぬうちに通夜だの葬儀だのに喪主側として参加して、怒涛の数日間を過ごした。遺影は彼の両親の希望で彼の実家に置くことになった。
 息子と同じ性であるのにも関わらず、妻に納まる自分の手元に息子を預けたくないそうだ。確かに納得するまで何度も何度も話し合いをしたけれど、最後は認めてくれた筈だった。なのに、どうして。

「息子の変わりにアンタが、息子の心を拐かしたアンタが死ねば良かったのよ!」

 どうして、そんなことをいうんだ…?

 目の前が真っ黒に塗り潰されたその瞬間から自分が何をしていたのか、どうやって生活していたのか。全く分からない。
 気付いた時には二週間程の時間が経っていて、その時の記憶は未だ空白のままだ。

 そして、残ったのは彼の姓と、思い出、形見が数点、あとは醜い己だけだった。



++++



 ゆっくりと目蓋が上がり、眠気を散らすようにぱちり、ぱちり、ぱちりと三回ほど瞬きを繰り返す。身じろぎしながら隣を見れば、ある筈のぬくもりが、ない。
 ふかふかの布団から音を立てて起き上がり、人一人分程の空きがある場所に両手を付いた。僅かに残るこのぬくもりは、本当にここにいた筈の人のものだろうか。
 考えれば考える程、悪い方へと思考は進み、言い知れぬ恐怖と不安感が体中を蝕み始める。かたかたと小刻みに震え出す両の手を抱え込み、浅い吐息を繰り返す。
 ああ、でも、まだ、きっと、近くにいる筈だ。いなくなる前に、追わなくては…。
 寝起きだからかもつれる足を叱責し、急いで寝室の扉を開けると炊き立ての白米の優しく甘い香りが鼻孔をくすぐった。それを頼りに足早にリビングへと向かえば、そこにあったのはテーブルに出来たばかりの朝食を並べる後ろ姿。
 何も言わずに、自分の手の届かぬ場所へ行った訳ではなかった。安堵の息を小さく吐くと、誘われるように目の前にある白いワイシャツの裾へと手を伸ばす。
 控え目に掴んだ裾を躊躇いがちに引っ張ると、黒いエプロンを身に付けた真紅の髪と目を持つ青年が作業の手を止め、振り向いた。こちらの姿を捉えれば、眉尻を下げて柔らかく微笑み、壊れモノを扱うように優しく優しく抱き締めてくる。それに青年の背中に腕を回して答えれば、ほんの少しだけ抱き締める腕の力が強くなった。

「おはようございます、俊さん」
「おはよう」

 小さく口元に笑みを浮かべると、青年も笑みを深めてくれる。前髪同士が混ざり合うほど顔を寄せ合い、内緒話をするかのごとく声を潜めて笑い合う。
 しかし、青年の姿を視界に映すまでの僅かな時間に感じた恐怖と不安を思い出し、文句の一つでも言ってやろうとじっとりとした目で見つめ、唇を尖らせた。

「…お前さ、オレの許可なくいなくなるなよ。びっくりするだろ」
「すいません。今後は気をつけます」
「約束だからな」

 肯定も否定もせず、ただただ微笑んでいるだけの青年。
 無言は肯定の証だと受け取ることにしよう。そう一人で納得していると、先程から鼻をくすぐるおいしそうな香りにとうとう我慢しきれず、腹の虫が小さく鳴いた。

「朝食にしましょうか」

 青年の腕の中で恥ずかしげに縮こまっていれば、そう声を掛けられる。青年から送られてくるなんだかくすぐったい視線に居たたまれず、それから逃れるようにそそくさと席に尽いた。青年も外したエプロンをキッチンへ置いてくると、隣に座る。
 手を合わせ、二人一緒に「いただきます」と言って食べ始めた。今日の朝ご飯は炊き立ての白米と小松菜と油揚げの味噌汁、鮭の塩焼き、白和え、沢庵だ。
 いつの間にか胃が小さくなってしまったみたいで、朝からこれだけのボリュームある食事はなかなかに手強いものがある。しかし、作って貰っている手前、毎日毎食出来るだけ残さないように食べているのだ。
 学生時代から、社会人になっても、朝はしっかり食べる派だった。でも、いつからか朝というより食事自体をあまり、しなくなって、だって、彼が……彼は………、

 彼…?……―――

「俊さんっ!」

 呼ばれ、はっとする。
 隣に視線を移すと、気遣わしげな顔でこちらを窺う青年の姿があった。

「大丈夫、ですか…?」

 返事しようと何度か口を開いたが、どうしてだかうまく言葉を紡ぐことが出来なくて。結局、頷いただけ。それでも青年はほっとしたような顔をしたあと、何事もなかったかのように食事を再開する。
 先程まで自分は一体、何を思い出そうとしていただろうか。
 不思議に思い、小首を傾げるも当然答えなど浮かばず。いくら考えても答えは出てきそうになくて、結局、昨日の夕食のメニューだとかそういった対したことのない内容だったのだろう結論付ける。
 そうして思考をまだ半分以上残る食事に戻し、まだ余裕のある薄い腹をさすりつつ、味噌汁の入った椀に手を伸ばした。

 青年に見守られながらなんとか全て食事を平らげたあと、二人で後片付けをして。
 それが終われば、今度は朝の身支度が始まる。洗面台を陣取って、顔を洗ったり歯を磨いたりなんだりかんだり。その後は黒色のパジャマから黒色のTシャツと黒色のパーカー、黒色のスラックスに着替えた。
 ちなみに指と足の爪には黒色のマネキュアを塗っていて、頭の先から足の先までまっくろくろ。鷲なんて大層な鳥の名前の目持つが、今の自分はただのカラスだ。
 青年に追い縋って、飯を食らい、生に貪欲な醜いカラス。笑える。

「ああ、アイツの見送り…」

 不意に見た時計が青年が出社する時刻が迫っていると指し示すものだから、「行かなきゃ」とひとりごち、玄関へ向かう。
 そこには既にきっちりと髪をセットしたスーツ姿の青年がいつもとは別人の顔をして、立っていた。詳しくは知らないがどこかの会社の社長をしているらしく、本当は醜い鳥の相手をしている暇などない筈だ。
 しかし、青年は涼しい顔で寝食を共にしている。
 一度聞いてみたことがあるのだが、上手いことはぐらかされてしまった。たぶん何度聞いてもはぐらかされてしまうだろうから、この案件はいつまで立っても謎なままなのだろう。一緒に居てくれさえすれば、謎なままでも問題はないのだけれど。

「俊さん」

 そんなことをつらつらと考えているとこちらの気配に気付いたらしい青年が目許を緩ませ、嬉しげに微笑んだ。

「今日は来てくれないのかと思いました」
「なんで。するよ、見送りくらい」

 仕事に行って、帰って来るまで何時間あると思っているのか。その間、この家に一人きりで留守番をしなければならないのに。だからこそ時間の許す限り、一緒にいたいし、言葉を交わしていたいのだ。
 上がり口まで近付くと手を引かれ、青年の腕の中へ閉じ込められてしまう。年下の男の腕の中にすっぽりと収まるのは年上として、同じ男として、なかなか屈辱的ものだ。だがしかし、容姿端麗眉目秀麗才色兼備な青年に抱き締められれば誰だって、ころっと簡単に絆されるに決まっている。

「お前、ほんとずるい」
「俊さんだって」

 ―――ずるいですよ。

 腰に回された手とは逆の手が頬を包み込み、上を向かされた。真っ直ぐで紳士的な真紅の瞳と視線が混じり合い、自然と息を詰める。躊躇いがちに目蓋を下ろせば、頬にあった手は耳をくすぐりながら、後頭部へと移動した。そして、徐々に近付いてくる気配に頬が熱くなるのが分かる。
 ああ、キス、するんだ。
 唇に掛かる吐息に言いようない高揚感を覚えたのと同時に、足を掴まれ、真っ暗闇の底なし沼に引き摺り込まれる感覚がして、咄嗟に目を開けてしまう。
 目と鼻の先にいたのは彼ではない、別の男。

 違う。
 ホントニ?
 こんなことをしたかったんじゃない。
 カレデハナイノニ。
 でも、だって、寂しいんだ…。

 ―――彼 ヲ 忘レル ノカ ?

「っあ…!!」

 思った時には目を丸くして息を詰め、男から距離を取る為に胸元を突き飛ばすように押した。しかし、男は掴んだ腰と頭から腕を離さず、きつくきつく、逃がさないといわんばかりに抱き締めてくるのである。

「いやだ!はなせ…!」

 声を荒げ、必死にもがけば、それ以上の力で抱き締められる。いやだいやだと聞き分けのない子供のように駄々を捏ね続けると、男の語気を強めた声が降ってきた。

「落ち着けっ、伊月俊!」

 くっと喉が鳴る。ぼんやりと揺らぐ視界の中、鮮やかな真紅が眩しく映り。深く、暗い底なし沼から引っ張り上げられる。
 そうだ。目の前にいる真紅の髪と目の彼を、オレ・伊月俊は知っている。

「ぁ……あか、し…?」
「はい」
「赤司っ、赤司、オレ…!」

 意識は混濁し、紡ぐ筈だった言葉は喉の奥へと消えていく。それでも何か言いたくて、陸に打ち上げられた魚のように口をはくはくと動かしていると、腕の力を弱めた赤司がオレの顔を覗き込む。
 柔く優しい笑みを浮かべた赤司は目許にキスを落とし、子供に言い聞かせるかのような声音で言葉を紡いだ。

「今の貴方を一人置いて行くのは忍びないですが、出掛けなければいけません」
「ちゃんと帰って来るのか?」

 ここに、ちゃんと。

「もちろん。大切な話もしなければならないですから」

 不安で仕方ないけれど、赤司は言ったことは決して曲げない人間だと重々承知している。だから、ちゃんと信じなくては。

「待ってるから」

 赤司は返事の代わりにオレの頭を一撫ですると、「行って来ます」と言って、玄関の扉の向こう側へと消えて行った。
 しばらくじっと扉を見つめていたが静寂を決め込んだまま、動こうとしない。
 たった一人残されたオレの意識は未だ整理が付かず、朧気で困惑したまま。全身からも力が抜け落ち、立っていられなくてその場に座り込む。眉間に皺を寄せ、目を瞑り、膝に額を擦り付けた。頭が痛い。
 だが、そんな中でも不安で覆い尽くされそうな自分に何度も何度も言い聞かせる。

「大丈夫、帰って来る。大丈夫…、」

 ―――だからどうか、オレの手の届かぬところに行かないで。






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