「なまえ」
夜中に、藍ちゃんに名前を呼ばれて目が覚めた。眠い目を擦りながら彼の方を見ると、上半身を起こしてこちらを見ていた。どうしたのだろう。ちらりと枕元に置かれた時計を見ると、午前2時を過ぎたところだった。
「藍ちゃん…?どうしたの?」
まだはっきりとしない頭を持ち上げて起き上がる。ぼんやりしながら藍ちゃんのパジャマの裾を握った。藍ちゃんはその手をするりと外すと、自分の手と絡めた。ひんやりと冷たい藍ちゃんの手が気持ちいい。
「なまえ、ちょっと起きて」
「どうしたの?どこか変なの?」
「ちがうよ。こっちに来て」
そのまま彼に手を引かれて、静かに布団を抜け出した。この家には私と藍ちゃんしかいないのに、なんだか誰かを起こしてしまうような気がして、できるだけ物音を立てないように歩く。抜足、差し足、忍び足。ゆっくりと薄暗い廊下を歩いた。ちらりと藍ちゃんの顔を覗くと、なんだか楽しそうな顔をしていた。何だろう。もしかして月夜に狸が踊ってるとか?
「こっち」
連れて行かれたのは、居間だった。いつもと変わらない。畳の匂いがもうしない、色も褪せた床。寝る前に読んでいた雑誌は、きちんとラックにしまわれている。
藍ちゃんはそのままぴったりと閉められた雨戸へ近付く。さっぱり状況の読めない私は、藍ちゃんの名前を呼ぶ。途中で、藍ちゃんの指が私の唇を押さえた。しー。思わず口を噤む。握っていない方の手で、藍ちゃんはするすると雨戸を開けた。建て付けが悪いので、途中でガリガリ、と音がした。
「なあに?」
楽しそうな藍ちゃんの顔から、雨戸の向こうへ目を移した瞬間、目の前がぱあっと光った。闇夜に木菟。ちょっと違うかな。思わず目を瞑りそうになったけれど、藍ちゃんの目をぎゅっと握って堪えた。視界に溢れんばかりの光。光。光。
「どう?」
「これ…ほたる?」
「そう。ボクも昨日偶然気付いたんだ。やっぱりここは田舎だね」
でも、その代わりにこんなに綺麗なものが見られるんだしいいか。そう言う藍ちゃんの目はとってもきらきらしていた。蛍の光と、月明かり。それから、彼自身がとっても輝いていた。素敵だなあ。思わず藍ちゃんに見惚れてしまう。
しばらくして、こちらを向いた藍ちゃんと目があった。途端に不安そうな顔になる。
「もしかして、知ってたの?」
「え、なにを?」
「蛍が来ること」
「知らなかった。今日藍ちゃんと見られてとってもうれしいよ。ありがとう、藍ちゃん」
こんなにうれしそうな藍ちゃんが見られたことも、藍ちゃんが私にこの光景を見せようとしてくれたことも、純粋にうれしかった。
藍ちゃんは私の言葉を聞くと、ほっとしたような顔になる。
「よかった」
目がゆっくり細められる。優しい目だった。
「どうしても、なまえに見せたかったんだ。いや、なまえと見たかったのかも」
そう言うと、握っていた手が離された。代わりに、腰を引かれる。藍ちゃんに包まれた。とくん、とくん。作り物かも知れないけれど、藍ちゃんの音。私の大好きな音。
「すきだよ、なまえ」
「私も大好きだよ、藍ちゃん」
藍ちゃんの体温は感じない。でも、溢れそうな愛を感じた気がした。
夏の夜は、優しく更けていく。