ちゃぷ、ちゃぷ、ちゃぷん。

顔まで水に浸かると、耳元で波の音が響いた。わかりやすいくらいの、波音。ちゃぷ、ちゃぷ、ちゃぷん。なまえの好きそうな音だ。

もう夏も終わる。
明日から9月、世に言う新学期だ。自分には関係のない話だが、学生には耳の痛いことこの上ないだろう。
そんな思いを抱えているかどうかはさておき、夏の終わりの海には大勢の客が押し寄せていた。そこらじゅうに立てられた色とりどりのパラソルに、個性豊かな水着、どこから持ってきたのか異種多用な浮き輪。夏の終わりを彩るには充分すぎるほどに鮮やかな世界が広がっている。

かく言う自分も、なまえが夏の思い出が欲しい、なんて我儘を言い出したのに仕方なく付き合っているのだが。まあ、仕方なく、というよりは快く、に近かったかもしれないが。恋人の水着姿を見てみたいと思わない男などこの世にいるものか。否、いるはずがない。当然、自分もその一人だ。

が、しかしだ。

一通り泳ぎ、遊んだ後。
なまえが「ちょっと」なんて言って席を外した。初めはこんなところで女が一人で歩くなんて、と思ったが、よくよく考えてみたら女が一人で「ちょっと」出掛けるなんて、まあ、手洗いだろう。そう思って、あえてついていかなかった。勿論心配は心配だが、あまりそのへんを深く突っ込みすぎるのは男として配慮にかけるのではと送り出したのだったが。さすがに帰ってくるのが遅くはないだろうか。

ちゃぷ、ちゃぷ、ちゃぷん。

からの、ざばあ。
なまえが持ってきたピンクの浮き輪と一緒に水からあがった。
女子の手洗いは何かと時間が掛かると聞く。しかも、今は水着。さらに言えば、海。遅くなることは致し方のないことだ。にしても、20分は遅い。遅すぎる。

濡れた髪をぞんざいにかきあげて、視界を良くした。べたつく潮水は鬱陶しいが、それよりもなまえが心配だった。何かあったのでは。

自然と早足になりながら、海の家のほうへ向かう。手洗いは、確かここだけしかなかったはず。
案の定、手洗いは(特に女子のほうは)かなり混み合っていた。しかし、近辺になまえの姿はない。どこへ行ったのだろう。だんだん焦ってくる。

「ヘリを…」

そう思った時だった。

「大丈夫?持とうか?」

「あ、いえ、大丈夫です。ありがとうございます。」

聞き慣れた声がした。
慌てて振り返る。が、人が多すぎてなまえの姿が見つけられない。でも、今の声は、確かに。

「一人で来てるの?あ、二人分だし友達と?」

「いえ、彼と来ているので。失礼します。」

「えー、一人でこんなに買いに来させる彼なの?ひどいじゃん。そんなやつほっといて、一緒に話さない?」

「結構です。私が好きで買ったものですので。」

「いいじゃん、あそこ、俺の友達もいるし、大勢のほうが楽しいっしょ?」

まさか。は大当たりだったようだ。
人混みを掻き分けて、声のするほうへ走る。

「ほら、来てよ!」

「ちょ、やめてください!離して!」

「おい!」

男の腕を、掴んだ。
馴れ馴れしくも、なまえの腕を無理矢理掴んでいる。こいつ、生かしておく価値もない。
なまえが驚いた顔でこちらを見上げた。

「真斗!」

掴んでいた手に力を込める。男が、なまえの腕を離した。だが、こちらは離さない。

「あ、えっと、カレシ?」

「殴られるか、3秒以内に視界から消えるか選べ」

え。と男の顔から血の気が引いた。
カウント、3。

「え、あれ、…聖川真斗…?」

カウント、2。

「俺のことを知ってるなら、賢明な判断ができるだろう」

カウント、1。
そう言った瞬間、男は腕を振り払って、光の速さで逃げて行った。まわりも驚くスピードで。

「なまえ」

「真斗…ありがとう」

なまえが、強張らせていた顔をやっと崩して微笑んだ。その顔が見れたから、まあ仕方ない、許してやろう。

「心配させるな。遅すぎるぞ」

「かき氷食べたくて。真斗の分も買ってきたんだけど…好きじゃなかった?」

「いや、好きだ。気持ちはとてもうれしいが、危機感を持ってくれ。」

そうでないと、こっちが大変だ。
自分の着てきたパーカーをなまえの肩にかけて呟いた。








俺の目の届く範囲にいてくれ