ベクトル。
大きさと方向をもった量。速度・力・加速度など。平面上、空間上の有効線分。方向性をもつ力。物事の向かう方向と勢い。
私から彼に向うベクトルも、彼から私に向かうベクトルも、今はもう、無い。
恋とは一方的なベクトルでも成立するものかもしれないが、お互いのベクトルが無くなってしまえば、それはもう意味を成さない。
そう。それはまるで、今の私たちのように。



05



「ハッピーバースデー、玲名!!」

パンパンパンと、クラッカーの音が響いた。
大きな歓声があがる。
目の前にはいつもより豪勢な食事と、大きなホールのバースデーケーキが用意されていた。今日のためにとみんなが用意してくれたものだった。

「はい!これプレゼントだよ―!」

杏やクララからは可愛らしい髪留めを、布美子からはコロンを、リュウジたちからはドライフラワーを、と抱えきれないほどのプレゼントを渡される。

「こんなに・・・ありが、とう」

お礼を言うと、みんな口を揃えて、おめでとうと言ってくれた。

「ねえ!ねえ!マキ、もうお腹空いたよ―!食べようよ!」
「地球にはこんな諺がる。"花より団子"」
「ちょっとリュウジ!失礼ねー!」

二人のやりとりに皆が笑う。
笑い声は絶えない。
学校での話、テレビの話、サッカーの話、話題は目まぐるしく変わっていく。
こんなにメンバーが揃ったのは久しぶりだ。
他愛もない話で盛り上がり、気づけば時計の針は九時を回っていた。

「あら、もうこんな時間。そろそろ片づけましょうか」

その言葉を合図に、片付けが始まる。
今日は主役だから、という理由で片づけを断られた玲名だったが、そうもいかない、と律儀な彼女らしく皿洗いを申し出た。

「あんたたち、後は私がするから先にお風呂入って」

後ろからそう声を掛けてきたのは、布美子だった。そうしてキッチンに残ったのは玲名と布美子だけになった。
カチャカチャと言う音が響く。

「ねえ、聞いたの?」

ヒロトに、と続くであろう言葉に、玲名は顔をしかめた。
そう言えば、そんな話を布美子としていた。
ヒロトと音無春奈のデートを目撃する数日前に。

「いや、聞いてない」
「今日聞くの?」
「聞かなくても良くなった」

最後の一枚を洗い終え、キュッと蛇口を閉める。
布美子はそれを良いように捉えたようようで、そうなの良かったわね、と言った後、じゃあね、おやすみ。と自室へと戻って行った。
その後ろ姿を見送った後、リビングに入ると瞳子姉さんが一人分の食事を皿にまとめ、ラップを掛けているところだった。

「ヒロト、間に合わなかったね」
「そう、だな」
「多分そろそろ着くとは思うんだけど」

チラリと時計を見る。もうすぐ十時だ。
と、その時、玄関の方から「ただいま」という声が聞こえた。

「ほら、帰って来たわ、お帰りヒロト。遅かったわね」

そう言いながら瞳子姉さんは玄関へと向かった。
玲名はギュッと服を握りしめる。
会いたくない、というのが本音だった。
会って、それで、何を話せばいいのか。
けれど二人分の足音は、確実にこちらに向かってくる。そして、ひょこりと顔を出し、「ただいま」と笑うヒロトはあの日と同じ笑顔だった。

「おか、えり・・・」

思わず、視線を逸らした。きっと不自然だったに違いない。
瞳子姉さんは何か感じ取ったのか、「ヒロト、そこに夕飯置いてあるから」と言い残し、リビングを後にした。
リビングには玲名とヒロトの二人だけになった。
しん、と静まり返る。その沈黙を破ったのはヒロトだった。

「あのさ、玲名。ちょっと外、出れるかな」

どくどくどく、と心臓が鳴る。
喉はカラカラで、「ああ」と一言つぶやくので精一杯だった。
服を握りしめていた指からそっと力を抜く。するとそこは皺でくしゃくしゃになっていた。今日のためにとアイロンを掛けていたお気に入りの服だったのだが、もうそんなことはどうでもよかった。
玲名は今から起こるであろう最悪の事態を、ただただ覚悟するしかなかった。




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