道中、ヒロトは何も言わず、ただスタスタと玲名の前を歩くだけだった。必ず、玲名の速度に合わせ隣を歩いていた彼が、だ。 (別れ話だな) 覚悟はしていたのだが実際その状況になるとこのまま逃げ出したくなった。 06 行き着いた公園には誰もおらず静まり返っている。 今にも消えてしまいそうな外灯と仄かな月明かりだけが頼りだった。 彼の後ろ姿も闇の中に溶けてしまいそうだ。 風に吹かれ、近くでキィキィというブランコの揺れる音がしている。そう言えば、幼少の頃、彼は良くあのブランコで一人で遊んでいた。そんな彼にサッカーをしないかと声を掛けたのは私だった。あの頃は、今なんかより単純で、喧嘩をしても次の日にすぐに仲直り出来ていたような気がする。あれから十数年。もうあの頃の関係に戻ることは無い。 こんな思いをするくらいなら、ずっとチームメイトのままで居ればよかった。 そんな思い出が走馬灯のように頭を駆け巡った。 ヒロトが、こちらを振り返った。その顔に笑顔は無い。 けれど、直ぐに彼は驚いた表情をして見せ、そして言った。 「どうして、泣いてるの」 泣いてる?誰が? そこでやっと、頬が濡れていることに気付いた。 雨の雫などではなく、それは紛れもない自身の涙だった。 「・・・ッ!!」 認めてしまえば、後から後から、止めどなく溢れ出てくる。 何度も押しとどめていたものが何故、今になって。 「玲名・・・」 「う・・・るさ、い・・・!」 ごしごしと袖口で目を擦る。 言わなくては。私から。「わかれよう」と。そのたった五文字の言葉を。 やられっぱなしは性分に合わない。ならば最後くらいは私から。 そう決めていたのに。 口から出てくる言葉は想いと裏腹な言葉だった。 「・・・く、ない。わかれ、たく・・・ないっ・・・」 ああ、なんて惨めなんだろう。最後の最後まで。 ほら見てみろ。ヒロトが眉根を寄せて、こちらを見ている。 馬鹿な女だと嘲笑っているに違いない。 ヒロトがひゅっと息を吸ったのがわかった。 目をぎゅっと瞑る。出来れば、耳も塞いでしまいたかった。 けれど。 「俺だって、別れたくないよ!!」 返ってきた言葉は、思いもよらない言葉だった。 だったら、と口が勝手に動く。醜いことは分かっているのに、止まらない。 「だったら、何故、連絡を寄こさなくなった?この前の、日曜日、お前、サッカーの練習だと言ってたじゃないか!音無春奈と楽しそうに街を歩いていたようだがな!他に女が出来たんだろう?別れたくない、など、どの口が言うんだ!」 ギッとヒロトを睨みつける。ヒロトは酷く慌てているようだった。 ざまあみろ。これで終わりだ。何もかも、終わりだ。 「ま、待ってよ、玲名!誤解してるよ!ごめん。不安にさせてごめん!連絡、出来なかったのは、バイトしてたからで、音無さんと一緒に居たのはこれを探してたからで」 そう言いながら、彼はポケットから小さな四角い箱を取り出した。 「こんなことになるなら、ちゃんと言っておけば良かった」 玲名の目の前まで歩いてきた彼はそっとのその箱の蓋を開けた。 涙で霞み、それはぼんやりと瞳に映る。 キラリと光るそれが、指輪だということに気づくのに数秒掛かった。 「・・・何だ、これ、は」 そう問うと、ヒロトはしどろもどろに話し始めた。 「あのさ、玲名。俺たち、来年卒業だろう?それで、俺、卒業してプロになって、ちゃんと玲名と釣り合うようになったら」 ヒロトがその指輪をそっと手に取る。そこでやっと、その指輪が綺麗な銀色だということが認識出来た。箱をパタンと閉め、右ポケットに仕舞う動作をぼんやりと見つめる。そして、その右手は玲名の左手をそっと持ち上げていた。 薬指にひやりとした感触。 「な、に・・・」 「俺と結婚してほしいんだ」 ざわり、と風が吹き、玲名の髪が舞い上がった。 目の前にある自分の左手を凝視する。 いや、その前に、彼は何と言った・・・? 「・・・は?」 思わず間抜けな声が出てしまった。 訳が分からず目を数回瞬かせると、一筋涙が頬を伝う。 それをヒロトは慌てたように、その涙を拭った。 「ごめん、急だったよね。でも俺、玲名とはそういう気持ちでいるんだ。だから、別れるとかそんなこと全く考えてない。むしろずっと一緒に居たいんだよ・・・ダメ、かな」 じっとヒロトを見上げる。きちんと彼を、こんなに近くで見たのは久しぶりだった。 何だったのだろう、この一カ月。結局はヒロトに踊らされていただけじゃないか。いや、元はと言えば自分の勘違いだ。素直に聞いていればこんなことにはならなかった。 ああ、もう、本当に。 「しょっ、しょうがないから、貰ってやる!!」 自身の左手を包むヒロトの手をパシン、と叩き落す。 けれど、その言葉に満足したのか、ヒロトはにっこりと笑った。 相変わらずのその笑顔に、ふ、と苦笑した瞬間、ふわりと前のめりになった。 そして、気づけばヒロトの腕の中だった。 「・・・っおい!離せ!」 「いや、何か嬉しくて」 「だから、はな、」 「好きだよ、玲名!」 ぎゅう、と更に力強く抱きしめられる。肺一杯にヒロトの匂いが広がった。 「い、いい加減離せ!!」 「っつううう!!!」 思い切り鳩尾に一発、喰らわせる。 その場にうずくまるヒロトを見降ろしながらはあ、と息を吐いた。 「おい、ヒロト」 きっと目はまだ真っ赤だろう。出来れば、先ほどの醜態を晒していた自分を消しさりたい。 けれど、こんな時にでもこんな可愛げのない態度しか取れない自分が少し腹多々しくなってきた。少しくらい、変わろうとしても良いかもしれない。 「帰るぞ。ほら、手を出せ」 「・・・これ、普通反対じゃない?」 ヘラリ、とヒロトは笑いながら玲名の手を取る。 玲名がゆっくり握ると、ぎゅっと握り返された。 帰り道。 やはり外灯は今にも消えそうで、辺りは暗い。 けれど、月の光は美しく、心はとても軽かった。 「ねえ、玲名。生まれてきてくれて、ありがとう」 「・・・よくもまあそんなセリフを恥ずかしげも無く」 「だって本当の事だから」 繋がれた指先は暖かい。薬指にある感触もくすぐったい。 本当に大変な一カ月だった。人間不信にも成りかけた。けれどそんなこと、もうどうでも良いと思えてしまう私は、ヒロトの馬鹿が移ったのかもしれない。 (お前の方こそ、生まれてきてくれてありがとう) 嫌いで、苦手だった彼をいつの間にか好きになって。 恋人同士なんて世間一般のような甘い関係では無いけれど。 それでも今こうして隣に居てくれることがどれだけ幸せなことだろう。 玲名は夜空を見上げ、微笑んだ。 二人のベクトルはお互いを指してる。 それはきっと、永遠に。 end. |