木の香り。鳥の囀り。やわらかい陽射し。
昨日の出来事がすべて嘘だったかと思えてしまうほど、のどかな朝だった。空は青く澄み渡っていて雲ひとつ見当たらない。

たくさんの緑に囲まれたここは――《神託の村 イセリア》

ひとりの少女が、目を覚ます。


「…?」


栗色の瞳が真っ先に捉えたのは、見知らぬ天井だった。まだ覚醒していない頭でも二、三回ゆっくり瞬きをすれば、ここが長年暮らしていた家でないと理解出来た。

少女が身体を起こすと、柔らかな金糸が視界の端に映った。白地に青いラインで縁取られた洋服は法衣のようにも見える。
彼女はにこりと微笑み「おはよう、クレア」と、少女の名前を口にした。
初対面のはずなのにどうして名前を知っているのだろう。
クレアが首を傾げれば、少女は少しだけ照れくさそうに笑って「自己紹介がまだだったね」そう言った。


「私はコレット。コレット・ブルーネル。あなたはクレア…で、いいのかな?」


コレットの問いにクレアが頷く。するとコレットは「間違ってなくてよかった」と胸を撫で下ろした。
そしてなにかを思い出したのだろう。机の上に置いてあった小さな宝石を差し出した。

ルビー色のそれに見覚えがあった。けれどクレアには宝石を身に着けた経験など一度もない。
どこで見たのだろう。もしかしたら知り合いの持ち物かもしれない。
そう思って記憶を辿ってみるのだが、いくらやっても答えは出なかった。

朝陽に照らされ輝く宝石は、見れば見るほど「懐かしい思い」をクレアの心に抱かせた。


「あのね、この宝石が教えてくれたんだよ。あなたの名前が『クレア』だって。すごく優しい声だった」

「優しい声?」

「うん」


一瞬、コレットの笑顔が誰かと重なった。

夢の中で微かに聞こえていたのは、コレットに名前を伝えてくれたのは、優しい声でクレアを呼んでいたのは――


「お母、さま…?」




買い出しから帰ってきたクレアを待っていたのは大好きな母親の笑顔ではなく、部屋いっぱいに飛び散る赤色だった。
ふと、赤色の液体に紛れて人のものではない足跡があることに気付いた。形は犬のようだが、村で生活を共にしていた彼らよりも一回り、否、二回りも大きい。

右を見ると、ついこの間母親と選んで買ったばかりの花瓶が割れていた。
左を見れば、朝活けた花がぐしゃぐしゃに踏み荒らされていた。
クレアの胸中で不安が渦巻く。

どうか現実にならないで。夢であって。夢じゃないならただの思い過ごしであって。
しかしそんな願いも虚しく、部屋の中央には真っ赤な血の海が出来上がっていた。そこに沈んでいたのは紛れもなく、クレアの母親だった。


「…!」


クレアは母親の頬に手を添えてみるが、伝わるのは失われたぬくもりだけ。何度母親の名前を呼んでも返事はない。
彼女は既に息を引き取っていた。

‘死’

重く苦しい残酷な響きがクレアの心を支配した。





「血が、いっぱいで…!」

「クレア…?」

「苦しそうなのに、お母さまは…息を、していなかった…!」


クレアは大きな栗色を見開き、声にならない声で泣き出した。嗚咽混じりの悲鳴のようなそれに、コレットはそっとクレアを抱きしめた。
言葉をかけることも宥めることもせず、ただただ優しく。

けれど、溢れ出す涙は止まらない。


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