「ここは…」
右を見ても左を見ても色のない漆黒の世界。
寒くもあたたかくもないここには、時の流れすら感じられない。
まるで《無》だ。
心を落ち着かせる為クレアは、胸元のペンダントを握った。
「…クレア…」
「え…」
クレアの耳元に、優しい声が吹き込まれた。
ふと、誰かに抱きしめられるような感覚。
ちらりと背後を窺えば、金髪の少年が柔らかく微笑んでいた。
彼の名前を呼ぼうとクレアが口を開けば、彼の人差し指がそれを塞ぐ。
「迷い」
突如クレアの目の前が真っ白になり、うっすらと景色が浮かび始めた。
走馬灯のように蘇るそれは、少しずつクレアの脳裏を侵食してゆく。
大きな栗色が一番最初に捉えたのは、自身の背中だった。
「私は、どうすれば良いのかなぁ?……っ」
《救いの塔》へ向かう前日、みんなに隠れてこっそり泣いた。
天使化の本当の意味を知っているのに、何も出来ない自分が悔しくて。
どうすればいいのか分からなかった。
「苦しみ」
ゼロスとヒルダ姫が話していると胸が苦しくて、締め付けられた。
それは「シット」って言って、大好きな人が他の人と話していると感じるものなんだって。
改めて自分の汚い部分を見せつけられているようで、嫌だった。
「悲しみ」
みんなが苦しんでいるのに、私一人じゃ何も出来なくて。
力のない自分が嫌で、悔しくて、憎かった。
私に力があれば、コレットは苦しまずに済んだかもしれない。誰かを、助けられたかもしれない。
――どくん。
「憎しみ」
クレアは大きな栗色を、更に見開いた。
――どくん。
彼女の心に呼応するかのように、残っていた花片が体中に広がる。
すると、激痛がクレアを襲った。
「っ、あああっ…!」
「…痛い?痛いよね。可哀相なクレア」
ぽつり。少年は呟いた。
彼の双眸は何の感情も秘めていないようにも見えるし、苦しむクレアを憐れんでいるようにも見える。
痛みに悶えるクレアの頬を一撫でし、彼は言った。
「心があるから、痛い思いをするんだよ」
皆が‘心’を失って同じになれば、痛みを知らずに生きてゆける。
誰かを傷付けることも、誰かに傷付けられることもない。
種族の溝がなくなり、眠る必要も栄養を摂取する必要もなくなり、何不自由なく長い時を生きていられる。
それが彼――ミトスの目指す千年王国。
「違、うよ…」
花片は変わらず激痛をもたらすが、胸元のエクスフィアとペンダントが強く瞬くと、僅かに痛みが和らいだ。
クレアはミトスのミントグリーンを見据え、首を振る。
「『痛い』って分かることは、とっても…大切なこと、なんだよ」
「どうして?ボクは…たくさん痛い思いをしてきた。だからもう、嫌なんだ。もう二度と『痛み』なんて知りたくないし、感じたくない」
誰もが等しく生きられる世界を目指したけど、それは夢のまた夢だった。
何故一時でも、欲にまみれた人間達と共存しようと考えたのだろう。
歩み寄らないエルフ達と気持ちを分かり合いたいと、思ったのだろう。
気付けば精神的にも肉体的にもぼろぼろだった。
「力を持たざる自分が嫌で、ハーフエルフを傷付ける人間やエルフ達が、憎くて憎くて堪らなかった。…クレアも同じでしょう?」
コレットを救う力が欲しかった。
いつだって自分は無力で、彼女が密かに泣いていたことすら気付けない。
力があれば、コレットは苦しまずに済んだのに。
「私、は…」
何も出来ない自分が嫌だった。
大切な人を傷付ける存在が憎いと思った。
心の奥底に蔓延る醜い感情が、嫌で嫌で堪らなかった。
だけど――
「自分の‘心’に、正直に生きたい」
例え『憎しみ』でも、私の‘心’が素直に感じたものだから。
どんなに汚い感情だって、醜い感情だって、大切にしてあげたいの。
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