タール12







廊下に誰も居ない時間を見計らって、薄暗い非常階段へ続く扉を開く。
向こう側も同じく無人であることを確認してから、扉の隙間に体を滑り込ませた。

かん、かん、かん。
階段を数段降りて錆びた手摺に凭れると、鞄の中のポーチからライターと煙草を一本取り出した。





「……ふう、」


銜えた其れに火を点けて、大きく息を吸い込み、吐き出す。
苦味に混じる独特の甘味と、メンソールの清涼感が鼻腔を抜けた。
…ううん、やっぱりこんな細いのじゃ軽過ぎ。
味もあんまり好みじゃないし。
女の子に人気っていうから買ってみたけど、やっぱりいつもの方が良いわね。

階段に座り込み、物足りない煙を肺に取り込む作業に精を出す。
派手なネオンのせいで星の見えない夜空を仰ぎながら、晩御飯は何食べようかな、なんて他愛の無い事を考えていた。








がちゃ、






「っ!!」
「……わお、すげーもん見ちゃった」
「…不動、くん…」




疲れていた事もあり、意識を宙へ飛ばしていた私は、完全に油断していた。
しまった、と気付いた時には既に遅く、唇から漏れる煙をしっかりと目撃されていたのだ。
しかも、よりによってまた厄介な奴に。



「……最悪」


呟いて、にやにやしながら階段を降りてくる不動くんを横目に見る。
こんな所で吸ってないで、大人しく帰っておけば良かった。
急いでお気に入りの赤い携帯灰皿を開け、くしゃりと煙草を突っ込んで立ち上がる。
逃げるように不動くんの横を通り過ぎようとした、けれど、横から伸びてきた腕によって阻まれた。



「まあまあ、ゆっくりして行きなよ、なまえチャン?」
「……はあ」


腕を引かれて、半ば強制的に階段に並んで座り込む形になる。
不動くんも煙草を吸いに来たらしく、シャツの胸ポケットが四角く膨らんでいた。




「やー、結構長い付き合いだけど知らなかったぜ」
「だって、秘密にしてるもの」
「だろうな。しっかし、なまえチャンが煙草吸うなんて意っ外ー」
「…そうかしら」
「そりゃそうだろ?あの国民的アイドルのなまえチャンが、まさかこんな暗い階段で煙草吹かしてるなんて、想像出来ないっしょ?」



けらけら笑う不動くんを横目に見てから、頬杖ついて顔を逸らす。
…自分だって、アイドル俳優の癖に。
そう言うと、不動くんは俺はそーいうキャラだから良いの、とか言って私の頭を撫でた。

私の背が低いからか、「なんか撫でたくなる」と不動くんはよく頭を撫でてくる。
やめろと言っても既に癖になっているようで、相変わらず会う度に撫でられるのが気に食わない。
なんだか、子供扱いされてるみたいじゃない。
同い年の癖に!








「へー、ピアニッシモねぇ」
「え?…ちょっ、いつの間に!?」



ぼうっと考えていると、いつの間に取ったのか、不動くんの手には口の開いた私のポーチ。
慌てて奪い返してジッパーを締め、ぎゅっと両手で抱えた。



「全く、油断も隙もないわね…」
「さすがアイドル、可愛らしいの吸ってるじゃん」
「これは…たまたま今朝試しに買っただけよ」
「じゃあいつもは何吸ってんの?」
「マルボロ」
「えっ」
「意外だった?」
「…うん、意外。なまえチャン渋いねえ。っていうか、俺と一緒じゃん」



お揃いだな、とか言いながら自分の煙草を見せる。
ポケットから取り出した其れは、確かにマルボロのパッケージだった。
しかも私と同じメンソール。
…不動くんも十分意外だから、それ。




「マルメンだけど、一本要る?」
「……うん」


私もいつもそれだから、と差し出された煙草を銜える。
ポーチからライターを探っていると、口元に不動くんのライターを差し出された。
有り難く火を貰って、ありがとう、と顔を上げる。
見上げた不動くんは、何故か嬉しそうに笑っていた。




「何よ、にやにやして」
「んー?いや、銘柄だけじゃなく種類まで一緒とか、なんか運命感じちゃうなーって」
「運命って…何バカな事言ってんの」
「バカな事ってヒドイなぁ。俺はただ、嬉しいだけなんだけど」
「意味解んない…」



相変わらず何が言いたいのかよく解らない奴。
灰皿に灰を落として、深く煙を吸い込む不動くんを横目に見る。
さすが俳優というか、顔だけは良いから煙草を吸う仕草も様になっていて格好良い。
見た目は完璧なのに、中身がチャラくて残念過ぎるのよね、この人。




「でもさ、なまえチャン、煙草なんて吸ってて良いのかよ?」
「んー?何が?」
「ニオイとかしたら、アイドルなまえチャンのイメージ崩れるだろ」
「そうねえ、まあバレなきゃ良いんじゃない?」
「いや、マルボロ吸っててバレない事はねえだろ」
「じゃあ、今まで私から煙草の臭いした事ある?」
「…そういえば、ナイかも」



仕事中は極力吸わないようにしてるし、消臭もマメに念入りにしてるからね。
これでも一応ちゃんと気を遣ってるのよ、と言うと、不動くんは少しわざとらしく驚いてみせた。



「へえ、さすがアイドルだねぇ」
「…あのさぁ、その"さすがアイドル"とかって止めてくれない?私もう24だよ?」
「えー、でもアイドルだろ?」



この年でアイドルはそろそろきついでしょ、いい加減落ち着きたいんだよねと愚痴を溢す。
もう十年近くやってるけど、そんな肩書きのせいでいつもキャラ作ってなきゃいけないし、年頃なのに碌に恋愛も出来ないし…



「…って、私ったらなんであんた相手にこんな話…やめやめ、もう帰るわ」


煙草を銜えたまま、ポーチを閉じて立ち上がる。
鞄を肩に掛けて階段を降りようとすると、不動くんにまたも手を掴まれた。



「……まだ何かあるの?」
「なまえチャンってば、ホント、つれないねぇ」


拍子に、二本の煙草が、それぞれ手から零れた。
腕を引かれ、手摺を背に押し付けられる。
左手は未だ私の右手を捕らえたまま、右手が私の顎に添えられた。



「…何のつもり、かしら?」


どくん、速まった鼓動に気付かない振りをして、視線だけで彼の顔を見上げる。
先程までの悪戯な笑顔とは打って変わって、不動くんは大人の男のような妖艶な微笑を浮かべていた。




「だから…言ったろ?運命、だってさ」


添えられた指に導かれるままに、彼と顔を向き合わせる。
交わった視線は徐々に近付いて、二人の鼻先が触れるか触れないかの距離にまで縮められた。





「"少女のままのアイドル"から、"大人の女優"になるチャンス…だぜ?」



気障ったらしい言い回しに、色気のある低い声、蕩けるような甘いマスク。
不覚にもときめいてしまった其れに、抗議し掛けた口を閉じた。


…少女から大人に…か。

悪くない、なんて思ってしまった私は、きっとマルボロの煙に毒されてしまったのだろう。





「…いいわ。乗ってあげる」






その代わり、私を大人に変えてね?


微笑むと、優しく頬を緩めた彼は、同じ香りの唇を重ねた。








タール12


(彼の手で変わりたいと思ってしまったのは、私だけの秘密)