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▼ 海を渡って

「剣士様は海ってみたこと、ある?」
馬宿でベットを借りる手続きを終えた僕にそう、彼女は声をかけてきた。
「海?」
「そう、海。湖みたいに水が溜まっているけれど湖よりもっと広くて、対岸が見えないくらいずっと続いているんだって」
枕元におくとよく眠れるというポプリを僕に手渡しながら彼女は言葉を続ける。
「湖と違ってお水はしょっぱくて、でもきらきらしていてとっても綺麗って」
本に書いてあったの。ポプリをサイドテーブルに置いた僕はベットに腰かけて彼女に視線を合わせた。「剣士様は色んなところに行ったことあるんでしょう?」まあね。海も見たことあるよ。そう返すと彼女はいいなあ、と羨望の眼差しをむけてきた。その瞳が可愛らしくて少し意地悪をしたくなる。

「キミも行ってみたらいいじゃない」
「どこにあるかも知らないんだもの。馬には乗れるけれど道がわからないところで無理させたくないし…」
僕から視線を落として口を尖らせる彼女がいじらしい。そんなことに気にしなくてもここから海まですぐ近くだよ。なんてことは教えてあげなかった。

「あ、あの剣士様がもっているウツシエ、今度あれで撮ってきてよ!」
なにかで行った時でいいから、ね?
髪を揺らしながら小首を傾げる彼女は僕の顔を覗き込む。その仕草が可愛くて、…僕を頼ってくれるのが嬉しくて、つい頬が緩みそうになった。油断している僕が目の前にある彼女の瞳に映る。その顔はなんとも言えない間抜けな表情で慌てて自分のそれを取り繕った。彼女の動作ひとつひとつに心を揺れ動かせられて仕方がない。でもそれが彼女にバレるのは悔しかったから精一杯強がった。

「考えておくよ」
「そんなあ。…他の人のお願いはなんでも聞いてあげるのに」
また唇を尖らせる彼女は拗ねたように僕に背を向けた。「剣士様ってば噂より意地悪なのね」意地悪したくなるのはキミだけなんだけれど。まあ彼女には言うつもりはないのでそのままにしておく。

「あんまり夜更かししていると朝起きられなくなるよ。明日当番なんでしょ」
馬小屋の掃除当番は朝が早い。と、彼女自身が前に言っていた。陽が登り始めると旅人や観光客の相手をしなくてはならないのでその前に終わらせるのだという。そして彼女は朝がめっぽう弱いことも僕は知っている。

「剣士様の意地悪。剣士様の朝ごはんだけ目玉焼きの数減らしちゃうから」
「チップ払わないよ」
「お客様は剣士様だけじゃないからだいじょーぶ」

そういうこと言うから更に意地悪したくなるんだけどな。他のやつなんてアテにするなよ。
振り返ってべっと舌を出す彼女に今度は僕の方が口を尖らせてベッドに潜り込んだ。するりするりと彼女によって引かれるカーテンの音がする。
「おやすみ、剣士様。良い夢を」
ベッドサイドのポプリの香りが彼女の顔を瞼の裏に映した。



「おはよう」
掃除道具を片している彼女に声をかけるとびっくりしたのか盛大に肩を跳ねさせて僕の方に振り向く。
「おはよう、ございます。もう出発ですか?ごめんなさい、朝ごはんまだ出来ていなくて…」
昨日あんなことを言っていたのに随分と真面目な返事が戻ってきたから思わず笑いがこぼれた。「大丈夫だよ。それより僕の馬、準備してくれる?」「はい。もちろんです」小さく微笑んだ彼女は掃除用の手袋を用具箱へ放り投げて馬舎の奥に入っていく。そしてすぐに革のグローブをはめた彼女が馬を連れてきた。仕事中はきちんと敬語で接客することに彼女の仕事観を測るが今はそういう気分じゃない。
「装飾はおつけいたしますか?」
「いや、いい。…お先にどうぞ」
「へ?」
僕が手で促すと彼女は間の抜けた顔で僕の方を見た。いいね、そういう顔も好きだよ。
「へ、じゃなくて。先にのっていいよ。もしかして2人で乗るの初めて?」
「え、あ、いえ、子供の頃に父とは乗ったことがあります、が…」
「じゃあ大丈夫だね。ほら、早く。あとお仕事モードじゃなくていいよ」

彼女の手を引いて馬に寄せると慣れた手つきで彼女は馬に跨る。僕が乗りやすいように少し前に出て空いたスペースに僕も続いて跨った。彼女越しに手繰り寄せた綱を引くと馬は街道へ脚を向ける。

「け、剣士様?」
「ほら、ちゃんと捕まって。……見たいんでしょ、海」

こちらを見上げる彼女は、僕の言葉にわかりやすく歓喜の表情を現した。その顔があまりにも強く僕の胸を穿つものだから、この心臓の音がすぐそこにいる彼女に聞こえてしまうのではないかと心配になる。「やあッ!」動悸の音を誤魔化すようにあげた僕の掛け声と共に馬は勢いよく走り出した。



初めてみた海に彼女は大層目を輝かせていた。その視線が僕に向けばいいのに、と僕は彼女の背中の熱を感じながら思う。キラキラと反射する光を跳ね返す彼女の瞳。その全てを僕に向けて欲しい。

「ねえ」
「…あ……、ありがとうございます。剣士様。私、まるで夢のよう…」
そこまで言われるともう何も言えない。
「海ってこんなに綺麗なのね。風も湖と違う香りがする。それにたくさん色があってゲルドからきた旅人さんがつけていた宝石みたい…」
キミの瞳も同じくらい綺麗だよ、なんてクサいセリフは声にならなかった。僕はただ、彼女の瞳の中で揺れる光をみながら、連れてきて良かったな、なんて単純なことを思っていた。
「私、初めて海をみたけれど、きっと剣士様が一緒だからこんなに綺麗に見える気がする」
「…へ?」
「だって、私いま海を見ながら剣士様のことを考えてる。青い水面とお日様を反射して光る金色。強く打ち付ける波とゆらゆらとどこまでも遠くまでいってしまいそうな寂寥感。海って剣士様みたいだっておもって、胸がどきどきして…」
あれ、私とても恥ずかしいことを言っている、よう、な…?どんどん声が小さくなる彼女の頬と耳が真っ赤になっていくのを見て僕の心はふわふわと浮き足だってしまう。その恍惚とした瞳が、視線が、感情が、海を通して僕を見ていたのかと思うと心臓が張り裂けそうに早鐘をうつ。落ち着かない腕をそっと彼女のお腹へ回し、髪から覗く首筋に顔を埋めた。彼女は驚いたように肩を弾ませたがそれすらも僕の体躯が奪い去る。

「け、剣士様?」
「名前で呼んでよ」
「…う、あ…リ、リンク…様」

彼女の心臓の音が聞こえる。
あぁ、このまま彼女を連れ去ってしまいたい。




タイトルは244から。
Twitterにあげました。ちょっと手直しをしていますが、見つけたら私です。



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