さすがにお別れをわかってくれた。さすがに聞いてくれた。
そう思ったのに、なんだろう今の予想してなかったプラス思考な返答は。頭の中がハテナで埋め尽くされて、ぽけっと黒野さんの顔を見上げた。すると、言い聞かせられるように髪を撫でられた。

「たしかにお前に大人の愛の理解は、まだ難しいかもしれないな。だが、それだけの話なんだ。俺への感情がまだ未知のものでよくわからなくて、お前は怖がってるだけだ。謎が解けた」
「…黒野さんちがう。多分、これはそうじゃないです。私は、」
「それに気づかず焦らせたことは俺が悪かった。だが、今お前自身が訓練校への入学を辞退してくれないと、この先4年は俺と離れて暮らすことになるんだぞ?きっとすぐ寂しくなって後悔する」
「わ、私はしないと思います…」
「いや、する」

わ、私の気持ちなのに、勝手に言い切ってきた……。
そもそも卒業後に私がまた帰ってくると思っていることにも驚いた。消防官になるつもりで出ていくのだから、ここに帰るつもりなんてあるわけないのに。
どうやら、薄々気づいてはいたけど、黒野さんの考え方は大事なものが大きくずれている。自分のいいようにしか、考えを持っていきたくないらしいというか。自分の都合がよくなるように解釈する思考しか、ないのかもしれない。

「リン…聞いてくれ」
「いや、貴方が私の話を……」
「さっきの電話で上司がな、お前本人が辞退しない限り取り下げは出来ないし、下手に拒否をして消防庁に不審がられないように大人しくお前の身を引き渡すようにと言ってきた」
「(全部遮ってくる)…それで…?」
「入学辞退しろ、リン。俺もお前の本当の気持ちが落ちついて整うように、焦らせたりしない」

お前は本当は俺が好きなはずなんだ。そのうちわかる、とシーツごと私を抱き寄せる黒野さんの腕の中で今の話を少しだけ考えて、ひとつの可能性を見出し、試すことにした。
灰島重工が、私のような廃棄の子供1人のために、消防庁に変な疑惑の目を向けられたくないという判断をしたのなら、これはきっと、危険なく通るはずだ。

「…それは、いやです」
「……なに?」
「私は、絶対に辞退はしません」

なぜなら黒野さんは、意外にも欲望以上に会社に忠実な人だから。
真っ直ぐに見つめ返した黒野さんの金色の目が、また悲しそうに悔しげに歪むのが見えた。
ああ、やっぱりもう、私をこの人は殴れなくなったらしい。

***

4月。
マンションの部屋から出れば、青い空の下、道の桜が風にゆられているのが見える。風が暖かく、私の髪を撫でてくれた。灰島から支給された能力を使う際の体温調整も助けてくれる冷却装備の杖も久々に握ると両手の傷が引きつって痛むけど、不安は消えていく。
──あの日以来、黒野さんは私を殴らなかった。正確には、辞退しない限り消防庁に引き渡すことになる私の体に、新しい虐待の傷をつける訳にはいかなかったのだ。私が死んでも、私に真新しい暴力の痕跡を残したままでも、 灰島重工としてはきっと、面倒臭いことになる。だから、私を引き渡せと言った上司さんから、電話で恐らくそう言われているのだろうと考えて正解だった。
私をいじめて言うことを聞かせられない、手放さないといけない苛立ちから、黒野さんがあげた手のやり場がなくなって部屋の壁にまたヒビがいくことになったけど、きっと会社のお金とか権力でなあなあにするのだと思う。
思い返していると、私の体を撫ぜる春風が、ここまでよく頑張ったね、と言ってくれているような気がするほど、私の心は晴れやかで、たまらなく嬉しい。ぎゅっと目を瞑って、両手を胸の前で組んで、感動を噛み締める。
私はようやく、暗くて狭いコインロッカーの中から出れたんだ。今日から、誰にも人生を支配されない。
入学式には全身の傷の治りが間に合わず、参加出来なくて一週間遅れの編入になるけど、全然いい。支給のこの制服も、何故か間違って男子制服が届いていたけど、それでも構わない。

「ふふ。さて、そろそろ出発しないと…」
「リン」
「んうっ!?…黒野さん、髪を掴まないで」

歩き出そうとしたら、後ろのドアが開いて、靡いた私の後ろ髪を捕まえられ、軽い痛みに振り返る。
すん、とした顔の黒野さんが、私の髪を握りしめていた。その目はまだ「行かないで欲しい」と訴えていた。

「…やっぱり考えなおさないか?」
「……直しません」
「弱くて社会の生活もろくに知らないお前が消防官なんて、厳しすぎる。つらい思いをするだけだ。俺と暮らしていこう。今なら全て許してやる。なァ、リン──」
「っやめてください!!」

ぐっと髪を引かれて、胸の中に倒れ込みそうになったが、なんとか力を入れて踏みとどまって叫ぶ──と、同時に発火させ、起こした乱気流で、黒野さんに掴まれたままの自分の後ろ髪を根元のあたりで切り刻んだ。
髪を切り離した勢いのまま振り返って向き合えば、風に散る髪の切れ端の向こうで黒野さんが目を見開いていた。こんなに驚いた顔は初めて見たかもしれない。

「……!!」
「…黒野さん、もうさようならにしましょう」

これ以上言わせないでほしい。
私は必要以上に貴方を傷つけたいわけじゃないのだから。

「私は二度と、貴方とこの先の人生が重ならないことを祈っています」

私の短い人生の中で、誰より深い傷を刻んだ人。
一気に重さがなくなった、ざんばらの髪をゆらして、振り返らずに階段を下りるべく、廊下を蹴った。
…初日が終わったら、ちゃんと整えることにしよう。


end.
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