「婚約者を少し話がもつれた程度で殺すわけないでしょう…仲直りも済ませたので」

済ませてない。仲直りなんていつしたというのだろうか。私はこの人と生きていくつもりはない。
私の爪痕がついた背中を向けて、誰かと電話をする黒野さんを全力で否定したいのに、喉が枯れて声が出ないし、身体は全身が言うことを聞かないし、焼かれた手はひりついて痛んで、指がうまく動かない。
私は逃げるために努力した。誰にも助けを求めず、一人で計画して、一人で努力して、自分でここまで逃げ道を作ったのに。それなのに、このままだと私は一生、本当に黒野さんと生きていかなければいけなくなる。いつどうされるかわからない恐怖に怯えながら人生を支配されて。
……どうしてなんだろう?街を歩いている普通の女の子みたいに、ただ私は、ささやかに笑って生きたいだけなのに。逃げ出したい。でもこれ以上、どうしたら。私にはもう何もない。
壊れそうな気持ちになっていると、少しずつ上司らしい誰かと電話をしている黒野さんの様子がおかしくなってきた。

「…リンを?」
「…?」
「は?いやですが。一度手放せなど…」

手放せ?私を?
まさか。どういうこと?
私は、逃げてもいいの?

思わなかった言葉が出てきて一瞬ぼけっとしたが、希望の持てる言葉だと気づき、一抹の期待を込めて黒野さんのどよどよとした空気を背負い出した背中を見つめる。

「……どうしても、ですか………………わかりました」

フゥー………と長めのため息と一緒に、ボフェっとドクロマークの黒煙が吐き出されている。あれは、間違いなく不満な時の反応だ。
子機を嫌そうに放り投げて、黒野さんは私の方に振り返った。
不満そうな、心底つらいとでも言いたげな瞳。緊張感から、シーツをひりつく手の代わりに腕で晒していた胸元にぎゅっとかき集め、震えそうな体を押さえつけた。
黒野さんが、それを見てまたちょっと、ショックを受けたみたいに瞳を揺らした。その反応には動揺するけど、でも、もっともっと傷つけられてきたのは私のはず。この人を怖いと思う私は悪くなんかない。…悪くない、はず。

「…まだ俺を本当に好きになれないのか?昨晩はたしかにやりすぎたが、お前が心を入れ替えて嘘をつかず愛してくれたら、もうあそこまで俺だってしない」
「…黒野さ、」
「今まで通り、ちゃんと加減する。だから俺だけを見ていてくれ。俺以外のことを考えないでくれ。一生俺を愛してくれ。なんでそれが、そんなにお前には難しいんだ?」
「…無理です。もう、無理なんです。黒野さん」
「……優一郎、がいい」

懇願するような、想いを押し付けてくる声に首をひたすら横に振る。ねだるように手首に這わされる指先を感じても、いやだいやだと首を振る。声がかすれて、喉が痛くて、上手に喋れないのがもどかしい。

私、貴方が怖い。自由になりたい。
貴方から、離れたい。
それが叶うなら、この先ずっと一人でもいい。
私は貴方と、結婚できない。

「…そうか。リン、お前はまだ子供だからそんなわがままで奔放なことを言うんだな。そうなんだろう?」
「…………はい?」

え?この人今の雰囲気で、なに言いました?

next?
33
/