強い風が、街中を吹き抜ける。
まだ少し肌寒いけど、確かに近づいてくる春を感じて、自然と笑みが零れてしまう。

「(だって、春には入学できる…!)」

まだ黒野さんから完全に逃げられたわけじゃないし、見つからないように準備をすすめることもたくさんある。でも、ひとまず、ひとまずは喜んでもいいはず。
合格して、入学金や入学同意書といった必要書類も返送したのだから。

「えへへ…うれしい…!」

嬉しすぎて黒野さんの前でも、にこにこしてしまうのが止まらないけど、黒野さんには引越しできることが嬉しいのだと思われているようなので、本当に良かった。
…だからこそ、本当のことを言って出ていくべきなのか、黙っていなくなるべきか、悩んでもいるのだけれど。

「(…それはまだ、ギリギリまで置いておいていいかな)」

今はまだ、向き合わずに喜んでいたい。
だって、ようやく自分で選んだ道を切り開けたんだもの。
黒野さんのことを考えただけで、少し重く感じはじめるスーパーの袋を握り直してマンションに入り、部屋のある階までいつものように上がる。そして、扉の前まで行って鍵を回す……う?

「……あいてる…?」

いつも回す方向に回したのに、鍵の開く手応えがない。閉めて出ていったはずなのに。
少しだけ迷ったけど、そっとドアノブに手をかけて引いてみれば、やっぱり扉は開いた。黒野さんはまだ仕事の時間だし、帰っているはずはない。中を覗くと、明かりはついていなかったし、人がいるのかも分からないほど静かだった。
泥棒さんだろうか?と背筋が寒くなる。黒野さんがいたら泥棒さんの命の方が心配だけど、今は私一人だ。泥棒さんがいたとして、鉢合わせて危ないのは私の方ということになる。

「……どうしよう…」
「リン」
「!」

入ろうか迷っていると、薄暗い部屋の奥から聞きなれた声が聞こえてきて肩が跳ねた。
ああ、泥棒さんじゃないらしい。
でも、どうしてこの時間に?

「……優一郎、さん?」
「おかえり、リン。帰ったなら、早く入れ」
「あ、はい!ただ…」

ただいま、と言い終わるより早かった。暗い部屋の中に足を踏み入れた瞬間、暗がりの中からほどけかけた包帯をひっかけた手が伸びてきた。がしりと腕を捕まれ、無理やり部屋の中に引きずり込まれる。扉が背後でがちゃりと閉まった。

「きゃあ!?」

あまりの乱暴さに思い切り体制を崩して、目の前の温もりを持った壁に飛び込むようにぶつかる。それが黒野さんの体だと気づくのに時間はいらなかった。

「あうぅ……ゆ、いちろう…さん…いたい、です」

いつものいじめだろうか、とか。どうしてこの時間に帰ってるのか、とか。色々聞きたいことを浮かべながら、ぶつけた顔を掴まれてないさすりつつ黒野さんを見上げたが、見下ろしてくる目から感じる煮えたぎる殺意に、喋るどころか動くことすら恐ろしくなった。
たくさんいじめられた。
殴られた。蹴られてきた。
泣かされた。苦しんだ。
でも、こんな、全身から冷や汗が吹き出て、絶対的な死を感じるような目を向けられたことは、1度も無かった。
どうして、急に。まさか。そんな。

「ぁ、…」
「…リン、そんなに何を怖がっているんだ。俺は、お前の愛しい恋人だろう」
「っ…ご、めん…なさ…」
「だから、そんな俺にお前は嘘なんてついたことはないよな?」

ああ、これは。まずい。
逃げないと。逃げないと。逃げないと。
どこでもいい。
この人の手が、目が、黒煙が。
何もかも届かない場所に。

「なァ、リン。正直に答えてくれ。まさか消防官になろうとなんて、馬鹿なことはしてないだろう?」

逃げ、ないと!
答えを返すよりも早く、ほぼ反射的に黒野さんの胸を押して飛び退くように離れ、扉を開けようと後ろのドアノブを掴みにかかる、がーー。

「ひ、ぎ…ぃ、っ…ぁぁあああああああああァァァ
!!!!!!!」
「…ああ、いつの間に嘘か本当かの返事も、ろくにできない悪い子になったんだ?」

たぱぱ、と赤い血が垂れていく。
膝から崩れ落ちるほどの痛みに、耐えきれない悲鳴をあげる。
私の手の甲には、黒い煤を固めたナイフが掌まで突き抜けて、深々と突き刺さっていた。

next?
30
/