外を出歩かせてもらえるようになって、しばらく。消防官を目指す…以前に、私に足りない常識や必要なものも、わかるようになった。
まずは体力。何年も部屋で暮らして、運動なんて……うん。限られたことしかできていない私は、まず少しでも遠出できる体力を作らなきゃいけなかった。次に、バスや電車に乗り方を覚えて、少し遠くに行けるようになって、世界はさらに広がった。お買い物の仕方も覚えることができた。
それから、いろんな人が本を読めて、勉強をしてもいい図書館という存在を知って、一気に勉強が捗るようになった。たくさんの基本的な教養も学ぶことが出来た。
逃げる素振りを見せずに、ちゃんと黒野さんとの約束と、婚約者として振る舞う生活も守ってるおかげか、どこにいくか連絡さえすれば、門限を少し超えても許してくれるようになった。おかげで少しずつ、本当の目的の下準備を進められている。
……と言っても、どうしても生活に挟まる、黒野さんからの暴力と、恋人としての務めには慣れないけど。
そう思いながら、ふつ、と鳴り始めそうな鍋の蓋を開けた。うん、いい匂い。レシピを買って、自分でお買い物ができるようになったし、少し料理のレパートリーも増やしてみた甲斐がある。

「優一郎さん、お夕飯ができました」
「ああ…今日はなんだ?」
「鶏大根にしてみたんです。とろとろに煮てあるので、やわらかいから安心して…っていたひ!!いたひ!!」
「そうか…嬉しいな」
「つねらなひでくださひぃ…!!」

嬉しいなら、どうして私の頬をつねるのか…あ、ちがう。この人は私を好きだと思うたびに私に意地悪をするんだった。かといって怒る時は、もっと酷いことをされるし、本当に殺されてしまいそうな気持ちになるから、好きの表現の時の方が、だいぶマシなのは確かだけど。
離されてもまだひりひりする頬を抑えていると、その手の甲に、黒野さんの手が添えられる。次はなにかとおもって、ちらっと見れば、とろりとした熱のこもった金色の目とばっちり視線があう。

「本当にお前はどんな風にいじめても綺麗だな…ますます夢中になる」

だから、ずっと俺だけの側にいてくれ。
どこかうっとりした声で耳元で囁かれて居心地が悪くなり、体ごと少し目を背けた。私は、この人から着実に、二度と私の姿を見つけられなくなるほどに、遠ざかろうとしているのに。この人は、一緒にいる時間が長くなるほど、私への気持ちを深くしている気がする。この不安感が、私が裏切ろうとしている罪悪感なのか、強すぎるくらい愛されている恐怖からなのか、人生の経験が足りない私にはわからない。
わからない、けど…少しずつ距離を詰めてくるのは、よろしくない。すごくよくない。

「…優一郎さん、あの、」
「好きだ、リン。それに、ちゃんと俺の言う門限も約束も、健気に守ってくれている。そういうところも、俺は愛している」
「は、はい。愛してくれてるのは大変嬉しいですけど、その、ご飯にしましょう?」
「だから、夕飯の前に聞きたい」

じり、と目の前の黒野さんと背後のシンクに挟まれるように追い込まれる。コンロの火は、いつの間にか消されていた。答えるまで、もう逃げられそうになかった。諦めを込めた気持ちで黒野さんを見上げると、こつんと私の額に自分の額を重ねてくる。踏み台に乗っているせいで顔が近づけられる体勢がとれるのは、うかつだった。

「……なんでしょうか」
「このところ、図書館にばかり行ってるだろう?」
「ああ、はい…楽しくて、」
「何をそんなに勉強ばかりしている」

ああ、やっぱり
元から、私が強くなることも、頑張ることも望んでいない黒野さんだ。
そろそろ知識をつけることに、疑いの目は向くと思っていた。

next?
21
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