誘惑の悪魔


「考え直す気はないのかい?」

「はい…」

「…行方不明になった彼女のことでの風評被害ならば、たしかに彼女からの君へのあたりはきつかったのは知っているが…ちゃんと彼女の行方不明は君のせいではないとわかっているよ」

「いいえ、いいえ…オーナー、たしかに私がなにかしたという風評を気にしてないといえば嘘になります。でも私は、そんな後ろ向きな気持ちだけでここを出て行くのではありません」

「それならば…本気で独立するんだね?」

「はい…私は、私の料理を気軽に楽しんでもらえるお店を始めることに決めたんです」


料理長(カポクオーカ)であった彼女が忽然といなくなってから、雑用ばかりさせられていた私に、ようやっと正式に調理に参加させてくれるようになったオーナーには申し訳ないが

その優しさを振り切るように決意を伝えれば、老いた彼は少しだけ考えるように目を閉じてから、静かに微笑んでくれた。


「…それならば、がんばりなさい。未来ある料理人をうちの店から失うのは残念だがね」


茶目っ気を帯びたオーナーの言葉に、私はただ感謝と離別を込めて頭を下げた。


***


「(でも、お店を始めると言ってもどうしよう…)」


テナントから探さなければいけないし、見つかってもきっと改装費だって必要になるだろう。

店舗としての国への登録も必要だわ。

やらなきゃいけないことは山のようにあるだろうけど、どうしたらいいのかしら。

義務教育後から進学せずに長年働いてきたから頭は足りないし、少しずつ貯めた多少のまとまったお金はあると言っても、なんのパイプもない私が下手な不動産にいったら

治安がいいなんて口が裂けてもいえないこの国では、簡単にいいカモにされて法外な値段をふっかけられるだけ。


「(レオーネを頼ってもいいのかもしれないけれど…今のレオーネは、荒み切ったまま私とも会ってくれないし…)」


先が見えない不安が押し寄せて、道を突き進んでた足がゆっくりと止まる。


「(誰なら私の不安の答えを知って………彼?)」


…いいえ、だめよラウラ!

彼の言葉に背中を押されたからって、得体の知れない人をあてにしたらダメだわ!

そもそも!辞めたのは私が私の夢のために決めたことだもの!

決断したのは私!あの日以来、私の前に現れもしないあの人は関係ない!

一人で、頑張らなくちゃ。

そう、これは試練なんだわ。

私が成功に至るために与えられた試練。


「(それに、彼に会ってもどんな顔したら…)」


思い出される唇の触れあった記憶に頬が熱い。

まるで火でもついたみたい。こんなんじゃ、顔もまともに見れないわ。

やっぱり一人で頑張るしか…


肩掛けかばんの紐をぎゅっと握った時、道の先から軽やかな一人分の拍手の音。

俯き気味だった顔を上げれば、相変わらずわけのわからない服を着たストーカーの彼。

アシンメトリーのブロンドがトラモントのオレンジの光に怪しくきらめいている。


「あ、貴方…!!」

「やあ、ラウラ。君の世界一のファンの言葉を信じてくれたんだね。まさしく英断だ。讃えるよ」


ディモールト・ベネってさ

楽しそうに私に近づいてきて、子供をあやすようにねっとりと言う彼に、肌がぞくりと粟立ち、思わず自分の口元を指で隠すように抑える。

そんな私を気にもせず、彼は一人舞台の役者のように悠々と言葉を続けていく。


「さて、君は今きっと困っているところだ。いや、何も言わなくていい。"店を始めるために、たくさんやらないといけないことはあるのに、なにも自分にはコネクションがない"そう悩んでいるだろう?」

「!?」

「君のストーカーはちゃあんと君を知っているさ。途方にくれることも知ってて、君に辞めることを促したんだからね」

「!なんで…!じゃああの言葉は…」


私を陥れる嘘だったんですか?

するすると連ねられた言葉に、そう噛み付こうとすれば、遮るように彼が人差し指を私の口に押し当てた。


「勘違いしないでくれよ。嘘だったなら君の前に現れることなく、俺は影で途方に暮れる君を笑っているさ。俺は性格が親切な方ではないからね」


性格が悪い。それは知っている事実だから、妙な説得力に黙りこめば、彼は満足そうに笑みを深めた。


「さあてと、可愛いラウラ。納得してくれた正直な君には、プレゼントをあげなくっちゃなあ?明日の正午にこの住所にきてくれ。きっと気にいるよ」


差し出されたメモ用紙を受け取れば、たしかにひとつの住所が走り書きされている。

家からそんなに遠くでもないから、行ける距離だ。

けれど、なんのために?

何を考えているの?

疑い深く見上げれば、人を拐かす悪魔のような彼は私を見つめ返してにんまりと笑った。


「明日、そこで君が来るのを待ってるぜ」


to be continue…
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