第七十五訓 茨の森の城へとご帰還
眠ることだけが、子供の頃の小生の幸せだった。
だって起きている時はいつも、狭い箱の中で独りきり、痛くて苦しみしか知らなくて
いつか私を造った、親と呼ぶべき人に、この微かな息すらも止められるんじゃないかって、恐かったから。
でも、眠っている間だけは、そんな全てから逃げれた。
夢の世界をふわふわと旅して、何をしても考えても、赦される世界。幸せだった。
ずっとこのまま眠り続けられたら――童話で読んだ、時を止めて茨の奥で眠るお姫様のように、深く、眠り続ける事が出来たなら――
きっと『自分』が死んでいくのも止められると、きっと小生を囲む茨が消えていると、そう信じながら毎日、目を閉じていた。
けど――そんな、そんな馬鹿な妄想を捨てさせて、日に日に鼓動が死んでいく小生の息を吹き返してくれた人がいた。
"「私を信じて、もう少しこの世界を一緒に生きて...見てみませんか?」"
そう言った、その人の伸ばした大きな手を、小生は、自信を囲う茨の檻の隙間から躊躇いがちに掴んだ。
すると目の前の茨は消えて、モノクロな世界は急に色を付けていった。
"「ほら、世界も捨てたもんじゃないでしょう?」"
そう言われ見たカラフルな世界と、抱きあげられた腕から伝わる温もり
そして、初めて苦痛からではない涙があふれたのを、小生は今も鮮明に覚えてる。
***
――...
「...朔夜姫様?いかがいたしましたか?」
「...なんでもない...少し、ぼうっとしていただけ」
蓮の花がいくつも浮かべられた乳白色の湯船を見ながら、小生の背後に控える数人の女中達の一人の問いに答える。
地下で泣き疲れて意識を失い、次に目覚めた時、小生は窓が一つだけある部屋に寝かされていた。
そして今は、下賤の者達と長く生活して、汚れているでしょうから清めなくてはと言われ、女中によって風呂へ連れて来られていた。
「...(汚れてるのは、この家の者の心の方だ...)」
「――しかし、姫様も長い間大変でしたわね」
「...何が...」
「どこぞの者に攫われてから、さぞ御苦労なされたのでしょう?」
「別に...(ココで一生を終えるより、遥かにマシだよ。大体攫われてないし)」
「ふふ、意地を張らないでくださいませ。我ら使用人一同はわかっておりますから」
「...」
何が、わかってるんだ?
一体、小生の何を分かった気でいるんだ。
理解を示そうとした事など一度だってないくせに。
くすくすと後ろで笑う女中達に、腹が立つ。
込みあがる怒りを鎮めようと拳を強く握っていると、一人の女中が、風呂に入るために脱いでいた小生の肌襦袢に触れた。
「!何を...」
「お着物を脱がすのも本来なら私どもの仕事ですのよ...なのに自分でおやりになるなんて...」
「姫様は戻ってこられたのですから、貴族のやり方に従っていただかなければ...」
「や、やめっ...」
制止するも、するっと肌襦袢を脱がされ、背が露わになる。
途端に変わる女中達の表情。
「っきゃぁぁ!」
「き、傷がっ...!!」
「なんて醜い...!」
「っだから止めろと言ったのに...!」
小生の肩から腰元にまでかけて、背中に走っている女らしからぬ古い刀傷に驚いたのだろう、顔が真っ青になっている女中達にため息を吐きだす。
こういう反応を見るのも久しぶりだな。
そう思いながら、怯えている女中達を放って浴槽に近づいて桶で身体に湯をかけた。
湯に浮かぶ蓮の香りで心を落ち着かせながら、湯船に身体を浸ける。
「...いつまでそこにいるつもりだい?怯えているなら出ていくといいよ」
「っ...姫様は、そのような醜い傷跡を何とも思いにならないのですか?」
「別に...普通だし(ここは苦しい...皆に会いたいな...帰りたいな...)」
「...戦争に参加なされていたとは、ご当主様に聞いておりましたが、野蛮な...」
「今まで側にいた民草達が蛮族だったに決まって...」
「それ以上、何か言うなら出ていきなよ」
「!っ...外でお待ちしていますわ...」
湯船の中で立ち上がり振り返って一睨みすれば、女中達はそそくさと出ていった。
それを見届けると、小生は湯船に再び身体を浸け、目の前に浮かぶ蓮の花を掌に載せた。
「(皆を悪いように言うのだけは絶対赦さない)」
それにお義父さんは小生を攫ったりなんかしてない。
死にかけていた小生に差し伸べてくれたあの人の手を取って、ついていったのは、小生の意思だ。
「(...小生の人生の大恩人を、犯罪者みたいに...)」
あの人がいたから、小生は生きていて
あの人がいたから、小生は人に愛し愛される幸せを知って
あの人がいたから、この国をまだ信じていられるんだ。
なのに、なのに...!!
深いやり場のない怒りに唇を噛み、蓮の花を握りつぶしそうになった時、そっと青白いやせ細った手が小生の手首に置かれた。
「!誰...」
「っ」
バッと振り返れば、手と同じように青白い肌の同じ闇色の髪に銀灰色の目の女性が、長襦袢を着た状態で浴槽のわきにしゃがみ込んでいて、
振り返った小生の目を見ると、彼女は戸惑ったように視線を漂わした。
そんな表情に小生は、見覚えがあり、行き着いた答えに、思わず目を見開き、手から蓮の花を落とした。
「...は、ははうえ...さま...?」
「!...」
「やはり、晦母上様...なんですね...?」
「っ...」
確かめるように問いかければ、怯えたような悲しそうな表情でぱっと立ちあがり、出ていこうとする。
小生は慌てて湯船に立ちあがり、声をかけた。
「待って...っまた逃げるんですか!」
「!?」
「小生から、逃げるんですか...!?」
「っ...(きっとこの子は、見捨てた私を怨んでる...怒ってるんだわ...)」
すると、浴室から出ようとしていた母上様が、ぶるぶると震えながら、泣きそうな恐ろしいというような表情で少しだけ振り返りこちらを見た。
その表情を小生は、見る度に向けられていたのでよく覚えていた。
「(...本当に、変わらず弱い人だ...)」
病弱だというのもその原因の一端なのだろうが、きっとそれだけじゃない。
この人にとって、小生の存在そのものが恐ろしいんだ、昔から。
いつも小生を見る度こんな顔をしていたっけ・・・
「(小生は、貴女をちゃんと母親だと思っているのに。貴女が弱いのはずっと分かっていたから、護ってくれなかったことを恨んだことなど一度だってないのに)」
ただ、産んだ娘として向き合って、せめて一度でも愛が欲しかっただけなのに。
それだけのことなのに、多分この感情の一つも、この人には届いていないのだろう。
そして今も、しっかり向き合おうとしてくれないこの人には届かない。
「(この人は可哀想だ...)」
この家の人間なんかではなくて、ただの街娘で、変な才能なんかもない普通の子供を産んで、一般的な家庭を築いていたら
きっと、こんな顔をしない幸せな人生を送れたんだろう。
「(肌も随分青白いし...)」
ザプ...
湯船の蓮の花を一つ掴み、浴槽から出て、ぺたぺたと扉の前で震える母上様に近づいた。
すると母上様はさらに怯えたように震え、目を固く瞑ってしゃがみ込んでしまった。
「っ...(朔夜...ごめんなさいごめんなさい...貴女が最初から愛される事がないと分かっていたのに
それなのに貴女を産んでしまった愚かな私を赦して...!)」
「...母上様...お身体に気をつけてくださいね...」
「!(え...?)」
できるだけそっと艶のある黒髪に蓮の花を挿してから笑いかけて、小生は浴室の扉からでた。
「...(笑って、くれた...?)」
そんな小生の後ろ姿を、座り込んだまま母上様が驚いたように見つめていた事を小生は知らなかった。
***
「...(さて...どうやって逃げようか)」
すぐに逃げたら皆に危害が加わるだろうし...
湯浴みを終えて、用意されていた彼岸花のような花と川が描かれた桜色の着物に着替えると、鉄の足枷をつけられた。
そして小生のために用意されたらしい、外から鍵がかけられた離れの座敷の中で考えていた。
格子のついた窓の向こうの、冬の空気で澄んだ青空が、やたら尊い物のように思えた。
「...(いままで、あの空の下を普通に歩いてたんだよなぁ...)」
そう思いながら、足枷をじゃらっと鳴らしながら窓により、格子を掴んで空を見上げ、外を見た。
外には庭園があり、雪が積っていた。
「...(そういえば、お登勢さんが今年は雪つもったらかぶき町で雪まつりやるっていってたなぁ...)」
騙してでも全員参加させるって...楽しみにしてたのに...それまでにここ逃げれるかな?
「(あ、そういえば今日ボーナス入るはずだったから万事屋で、おいしいもの作ってあげようと思ってたのにな...3人の喜ぶ顔見たかったな)」
あの3人といると、本当に家族みたいであったかくて、幸せになれるんだよね。
「(真選組も、急にいなくなったから洗濯掃除とか、皆自分でやってくれてるかな...
...携帯壊されたっぽいから連絡できないし、帰ってトシに怒られなきゃいいなぁ...)」
トシの説教って長いから...あ、でも今聞いたらなんか嬉しくて泣きそう。
「(空覇は、最近仕事も始めてたし、小生がいなくても生きていけるかな?真選組の皆もいるし...)」
でも純粋に慕ってくれた笑顔がもう一度見たい...
外で出会った大切なものを次々に思い出し、思わず格子を強く握る。
「(小太郎にエリーも、蕎麦ばっかり食べて馬鹿な事してないかな...晋助のことだって終わってないし...辰馬も最近会ってない...)」
他にも他にも...と思い返すたびにぽたぽたと畳に染みていく痕が、小生がもう孤独ではない証だった。
一人ぼっちで愛を求め、外に出る夢を見て、眠りに幸せを覚えていたあの頃の小生とは違う。
今の小生は、この世界に残してきたものばかりだ。
小生は、もう眠っちゃいけない。眠ることなんて望む事はしなくていいんだ。
「(だって、小生の大事なモノはもう...夢の中じゃなくて...外にあるんだもの)」
小生が愛してるものは、全部この世界にあるんだもの。
だから茨の奥で100年の眠りなんて真似してられない。
だって、小生はそんな大人しいお姫様なんかじゃない。騒がしくやんちゃして、皆と生きてたいんだ。
皆と過ごす世界を考えるだけで、勇気が出るよ。
「(大丈夫、頑張れる。だって小生はもう何も持ちえなかった頃の自分じゃないから)」
ちゃんと抱きしめれば、同じだけ抱きしめ返してくれる存在がたくさんいる。
好きだといえば好きだと返してくれる皆がいる。
流れた雫でぬれた目と頬をぐいと拭い、ニッと笑う。
「(一人じゃない限り、頑張れる)」
そう決意を固めた時だった。
ガラッ
「!」
「...なんだ、ぴーぴー泣いてる頃かと思ったのに、残念」
「!っこ、暦兄上様...!?」
急に扉が開き、驚いてそちらを見れば、この前晋助といた、相変わらず酷薄な笑顔を浮かべて暦兄上様が立っていた。
「まさかお前が家に戻されるなんてね...ムカツクよ」
「...小生もまさか、また貴方に会う事になるなんて思いませんでしたよ...(今回の件に兄上様は関与していない...?)」
「あの頭の回らない馬鹿親父も何考えてんだか...ホント、親父にもお前にも反吐が出る」
襖を閉めてスタスタとこちらに歩み寄って来て、小生の首を両手で掴み、絞めながら立ち上がらせてきた。
「っか...は...!」
「お前なんかいなくても俺だけで十分なのにな...なんでお前みたいな、産まれてくるはずなかった出来損ないにその才能が芽生えたかな...」
「っあ、に...ぇ、さま...!(息ができない...!)」
「っと...お前には死んでもらったら困るんだよ...本当は殺してやりたいんだけどね」
ぱっと手を離されて、どさりと畳に崩れ落ち、急に入ってきた酸素に咽る。
「ごふ、げほっ...えほっ...!
「...弱いわりにしぶとくて助かるよ。痛めつけても死なないから」
「っあな、たは...何を、しようとしてるんだ...!」
まったく何がしたいのか読めない兄の行動に問いかける。
「それは二日後の楽しみだよ...」
「ふつ、か...?」
「あぁ、知らないんだ?二日後、お前の公的なお披露目の式典があるんだよ...お前は長い間、病に倒れていて、療養していたことになってるからね」
「!」
「ついでにお前の婚約の発表もね」
「!?な...」
「しかし相手は見ものだったな...出来損ないのお前にはぴったりだけど」
くすくすと心底可笑しそうに笑う兄上の言葉に、小生は全く聞いていない話にただ茫然とする。
「ふふ...まぁそれは楽しみにしていなよ...」
「(そんな...二日以内になんとか逃げないと...!)」
「...そうそう、それと...俺と鬼兵隊総督君の繋がりが気になってるだろう?」
「!」
「俺はね、地球でただの人間としてお貴族様をやってるのに飽きて、春雨の科学者になったんだよ。そしてこの前、総督君と一つの契約をした」
崩れ落ちたままの小生の前にしゃがんで、嫌な笑顔を浮かべる兄。
「けい、やく...?」
「そうさ...1000年に一度常盤家に生まれるって言われる天才の...お前の脳のデータを全て俺に引きださせる変わりに、
総督君のことだけしか見ないようにしたお前を渡すっていう契約だよ」
「!?う、そ...(晋助そんな契約したの...!?)」
思わぬ契約に目を丸くする。
「俺はこんなくだらない嘘は言わないけど?」
彼も、大分しつこくお前が死なないのかとか聞いてきて渋ってたけどねー。大丈夫って言ったら飲んでくれたよ。恋は人を盲目にするね。
「だから――、春雨はこれからお前も狙うよ」
喜んで、絶望して、泣いて、苦しめばいい。
捕獲するためなら、殺す以外なら何をしても良いって言ってるからさ
「そういう訳だから...朔夜。二日後楽しみにしていなよ」
そして、突きつけられた沢山の事実に動けないでいる小生に、にっこりと冷たい笑顔を残して、暦兄上様は出ていった。
がちゃりと鍵がかけられた音で、身体が震えだす。
「(お披露目?婚約者?それに契約...?)」
なにそれどういうこと?聞いてないよ?
晋助と兄上様の契約に関しては、今はおいとくとしても...
なに婚約者って...ふざけるなよ!
「(それにお披露目って...あと二日以内に、ここでなきゃ!じゃなかったら小生は本当に死ぬまで籠の中...!)」
悠長にしてられない!早く逃げなきゃ...皆に会えなくなる!
***
そして、朔夜が真剣に逃げる算段を考え出した頃――
「(私に、笑ってくれた...朔夜が...私を見て...)」
朔夜の母親である常盤晦が、床の中で自分を恨んでいると思っていた娘の笑顔を思い出していた。
「(...私は馬鹿ね...朔夜は、いつも向き合ってくれようとしてたのに...)」
ずっと、私の弱さを理解して、真っ直ぐ見ててくれてたのに...私は恨まれてると思って、恐くて目をそらして逃げてばかり...
今だって...あの子が主人に一生苦しまされそうなのに...何もしらないふりしようとして...
「(また、何もしてあげないつもりなの...?私は...)」
母親失格であろう私に笑顔を向けてくれたあの子が、また一人苦しもうとしてるのに...
「(...今度こそ護って、あげなくちゃ...私が...)」
一度くらい、母親らしく助けになってあげたい...
あの子の...朔夜の力に...
何一つしてあげられなかった私に、母と呼びかけ笑いかけてくれた、元気に美しく育ってくれた優しい娘の助けに...
そっと、枕もとのしっとりと濡れた蓮の花に触れる。
「っ...(朔夜...私ね、貴女をもう見捨てないわ...)」
声も出せないし、向き合う事が恐くて逃げてばかりだった私だけど
でも、貴女の事を、ずっと愛していた気持ちだけは本当だから。
それを私は証明するね...朔夜。
そう決意すると身体を起こして、晦は文机に向かい、紙と筆を取り出し、何かを書きだしたのだった。
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