Pisces
年月は過ぎ去り、ミュールは夜の森を走っていた。
息を切らしながら、わずかに赤みを帯びた月を見上げる。
赤い月は遥か昔より凶事の印。
彼女はその色に、思わずその瞳に一瞬だけ絶望を映したが、一度だけ瞬きをして、ひとつの希望の色を浮かべなおし、疲れ切った足を止めた。
彼女には、彼女の美しさを愛した人間の夫と、その間に生まれた子供がいたが
今、この瞬間、彼女の手元にはもうなにもなかった。
あるのは星空のような髪を飾る赤い赤い、バラの一輪。
他を全て、人間たちに、森に住む魔性の化け物と呼ばれた時から手放した。
旦那も、息子も、血脈が続き、この星の光ある未来のために。
今から散らされる、この命は重要ではない。
重要なのは、彼女の、彼女たち種族の生きた証、血脈の歴史と知識が続き、美しい星を導く貢献をし続けること。
「(天命を貫くための生命…私は、もうここまで…)」
短いと思っていた生の時間。
色々なことがあった。
それは、人間の半分も生きられない彼女には十分すぎるほどに。
なにごとかを叫ぶ人間の声や足音を遠くの方に聞きながら、彼女は膝をつき、夜空を仰いで思い出す。
彼女の人生を、より重厚で、満たされたものにした男の姿を。
「(…カーズ…プライドの高い貴方は、私を理解できず、私が愛を裏切ったと思っているのでしょうね…)」
けれど、それは違うと彼女は胸の中で語る。
私は貴方を愛していたし、愛していたかった。
できるのなら永遠に、と。
「(…でも、ごめんなさい…定められた命をまっとうする事をこそ、私はやはり…)」
ミュールの胸中の懺悔は、そこで終わりを告げた。
背中から心臓に突き刺さる、槍が、彼女の思考を破った。
そして、息をつく暇もなく石やらでその頭や身体を殴打されていく。
途切れ、散り散りになっていく意識の中で彼女は、最後に、ほぅ、と息を吐き出した。
「(……カーズ……私はやはり…天命に尽きる命と、満たされた短い人生を…尊いと…思う、の…です…)」
赤に沈んだ彼女の体の行方を知るものは
今はもう誰もいない。
end…?