ボルサリーノさんの名前を知ってから、しばらくが経った。
互いの名前を知る前より、もう少し世間話がプライベートなものになった。
バイトの日が、前よりもずっと楽しく思えて、すっかり忘れてしまっていた。
だからだ。
迂闊にポストを開けて、私宛の名前だけが書かれたまっ白い封筒を開けてしまったのは。
「きゃっ!」
指先にはしった、ぴりっとした痛みに反射的に悲鳴をあげ、顔をしかめる。
指先に目を落とせば、したたる赤と、封筒の口には剃刀の刃。
ぞっと寒気がはしったけど、このままにしていたら赤犬さんが帰ってきた時にばれてしまうと思い
血が滑る指で白い封筒の端を掴み、慌てて部屋へと駆け込み、刃に気をつけながら中の紙を見る。
『指を切りましたか?それはお仕置きです。どうして私以外の男に近づこうとするんですか』
「っ…」
ワープロ打ちの字に胃から込み上げるものが抑えきれず、手紙を投げ捨ててトイレに駆け込んだ。
「う、ぇ…」
内臓が痙攣して吐き出す苦しさと、つんとする匂いに自然と涙が落ちる。
ようやく落ち着いてきて、トイレの床にへたりこむ。
「っ、はぁ…げほ…(一体誰がこんなこと…)」
私以外の男に近づくなって…
「…(ボルサリーノさんに近づくなってことださべか…そんなの、無理さね…)」
切った指先に、じわじわとした痛みだけでなく恐怖と悲しみも滲んだ。
***
「アヤちゃん。指どうしたのォ?」
「あ、その…ちょっと紙で切っちゃって…」
翌朝、絆創膏を巻いた指を指摘して来たボルサリーノさんに、なんでもないように笑い返す。
「…ふぅーん…気をつけねェといけねェよォ〜」
ぽん、
「!」
まるで当たり前であるように自然に頭を撫でられ、少しだけ驚く。
「…おォ〜…つい撫でたくなってねェ〜…嫌だったかァい?」
「い、いえっ…むしろ、ありがとうございます…!」
誰もカウンターに並んでなくて、心底よかったと思う。
今の私の顔は真っ赤だし、誰も並んでないから、こうして話して、撫でてもらえた。
ゆっくりひろがる幸福感に、やっぱり私は、と自覚めいた意識が。
「(…この人が、好きなんだろうな…)」
何十歳も上だろうお客様、しかも多分ヤクザだろう人に感じることになるとは微塵もおもわなかったけれど
すとんとはまった言葉に、間違いなく恋をしてしまったと確信した。
垂れて滲むインク
(近づくな、なんて知らない誰かに言われても遅かった)