08




「あつい」
扇風機も扇風機なりに頑張って働いてくれているのはわかる。だけどこの気温と湿度のなかじゃ力不足だ。夜はいいんだけど、昼間はどうしてもなあ。
「…行くか、図書館」
身支度を整える手間と暑さに耐えること、天秤にかけて傾いたのは身支度の方だ。ここは踏ん張りどころだぞ、私。



【課題がわかんねぇ】
【具体的には?】
【大量に】
図書館で課題を片し始めて数時間、震えた携帯を取り出すと静雄からのヘルプメール。大量という単語に悩まずにはいられない。
直接会った方が教えやすいけど、この数時間でも子供が司書さんに注意されてるのを何度か見た。かといって他に場所なんて。私の家の暑さに耐えさせるのは気の毒だし、長時間ファストフード店に居座るのも罪悪感がある。静雄に聞けば詳しいかなそういうの。私よりはこの地域に詳しいだろうし。

【どこか勉強できる場所知りませんか】
送信して数分後。帰って来たメールに「お」と小さく声を漏らした。いいのかな。でも行ってみたい。人間は好奇心に勝てませんから。

【俺の家使うか?】



スーパーに寄って買ったジュースやらアイスやら静雄の好きそうな甘いものをカゴに入れ、住宅街のなかを走る。ある一軒家の前で止まり、インターフォンを押すと、予想に反して聞き馴染みのない声がした。
「どちら様ですか」
「野々村です。静雄くんの友達なんですけど」
「…兄さんの?」
「はい」
家は間違ってないと思うし、静雄のことを兄さんと呼んでいるから、弟の幽くんが出てくれてるんだと思うんだけど。戸惑わせてしまっているらしく、その後の返事がない。静雄にメールして出てきてもらうべきだったか。
「出直したほうがいいですかね」
「…どうぞ、上がってください」
ちょっとずるいことを言ってしまっただろうか。罪悪感はあるがこの炎天下で待つのも耐えられないし、お言葉に甘えてしまおう。


「おじゃまします」
幽くんに出迎えられ平和島家の中に入ると、他人の家の匂いがした。あとほんのり静雄の匂いもした気がする。今更緊張してきた。
「兄さんがいつもお世話になってます」
「いえいえこちらこそ」
歩きながらお決まりのやり取りをしたあと、沈黙が流れる。何を話せばいいんだ。悩んでいるうちにダイニングルームに着き幽くんが立ち止まった。
「立ち話も何ですから」
幽くんの視線が木製の椅子に移る。ここに座れということか。
「失礼します…」
高校入試の面接練習を思い出す。静雄の友人に相応しいか見定められているのだろうか。吸い込まれそうな瞳は何を考えているのかよくわからない。

案内も済んで部屋に帰っていくのかと思えばそうでもなくて、幽くんはその場に立ったままだった。
家主だから離れられないのか。そういえば静雄はどこに?疑問は色々あるが、なにより聞きたいことは、
「何かご無礼を…?」
「兄さんが誰かを家に呼ぶなんて珍しいから。」
 あ、そっち。ほっとしつつも、なおさらお邪魔しちゃ悪かったんじゃ、という気持ちになる。
「良かったのかな…」
「気にしないでください。俺は会えて嬉しいですから。」
抑揚がないのもあって社交辞令感は否めないけど、照れるには照れる。
「私も噂の幽くんに会えて嬉しいです。」
隠すようにそう返すと、幽くんは何度か瞬きして、それから表情を柔らげた。表情に関しては私の主観だ。なにせ幽くん、驚くほど表情筋が活用されていないので。
これに関してはあんまり静雄とは似てないんだなあ。
「あ、幽くんもどれか食べます?」
袋からいくつか取り出して聞いてみる。
「じゃあ、プリンを」
甘党なのは似てるんだ。


「悪ィな幽、留守番頼んで…って、若葉もう着いてたのか。」
平和島家に着いて十数分、幽くんの存在感に耐えつつ先に課題を進めていると、扉を開けて静雄が現れた。
静雄の私服姿は、地味に初めて見るんじゃなかろうか。無地のTシャツに黒のスキニーというシンプルさを極めた格好なのに、様になりすぎている。素材の勝利だこれは。手に持っているのはスーパーの袋だけど。
「お邪魔してまーす!あれ、何その袋」
「あ?説明してねぇのか。」 
静雄に振られ、視線が集まってもなお、幽君はちびちびとプリンを食べる手を止めずに言った。
「兄さんの友達がこのひとだと思わなくて。」
「信じてもらえてなかったんだ…」
悲しみよりも心配が勝る。知らない人間を家に上げて、そいつに貰ったものをよく食べたな。危機意識が低いのか、図太いのか。誘拐されないかな…。

「何回か話したことあるだろ」
「話は何回も聞いたことあるけど、顔も名前も初めて知った」
「何回も!?」
聞き捨てるわけにはいかず、何を話したのか問いただすように静雄を見ると目が合った。が、すぐに逸らされた。何か後ろめたいことを話したのか。
「飴を貰ったとか、勉強を教えてもらってるとか、席替えでまた前後になれてうれ──」
「お、おい幽!!」
「な、な、なん、なに、何から、何まで!!」
「いや、おれは別に、そんな、」
幽君の暴露以降、静雄の顔は真っ赤である。
高校生活に夢と希望を抱いているであろう中学生に、いかに眠気と戦うか、先生に採点を甘くしてもらうかについて考えている高校生の実態を知らせるわけにはいかない。あと私のダメさが露呈していても耐えられない。お土産にちょっとお菓子を出しただけではあるが、せっかく取り繕った気前の良いお姉さん像が揺らぐ。
「これ以上変なこと話してないよね!?」
「変なこと…?」
「教育上よろしくないこととか…」
「教育…?」
静雄の顔が更に赤くなる。何を想像してるんだ!
「いつ居眠りしてもいいようにタオル敷いてることとか!!」
自爆だ。やってしまった。人間、やっぱり焦るとダメなんだ。
一方で何故か静雄は納得したような顔をしている。
「あ、そういう使い道なのかあれ。俺も真似するか」
「いや静雄は寝すぎ。私は寝ようと思って寝てないから。」
「よく頭揺れらしながら耐えてるもんな」
「み、見てみぬふりしてよ!!そういうのは!!」
は、恥ずかしい。どうして友人の弟に学校での醜態を知られねばならんのか。無邪気か。勘弁してくれ。
「今後一切私に関すること話すの禁止で。」
「そんなに話してるつもりねェんだけど…」
「禁止で。」
「わかった…」
ガタ、と椅子を引いた音にはっとさせられた。いつの間にか幽君はプリンを食べ終えたらしい。
そして容器を片付ける様子を目で追いながら、今日の目的を思い出した。
「……課題やろうか。」
「…準備してくる。」



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