※死ネタ注意
戻りたいと思える日なんて一度もなかった。けれど進みたいとも思わない。ただ流されていくだけ。逆らうことも、立ち止まることもなく何も変わらないままただ流れていく時間と、自分。 けれど毎日はそれなりに忙しかった。寝て起きて、仕事をして、帰り、寝て起きる。永遠に繰り返される日常。慣れてしまえばそれも平穏と呼べる余裕さえ出てきたそんなある日。 硝子でコーティングされたような日常にヒビを入れる出来事は無慈悲にも突然訪れる。
「…もう一度…、お願いします」
噎せ返るような消毒液の匂い。 病院の診察室で白衣を着た中年の医師に告げられた言葉が聞こえず(受け入れられずに)私はもう一度言葉を促した。
「手を尽くしましたが…一十木さんの耳は、今の医学では治りません」
気が遠くなるようだった。 音也は昔から耳が弱かった。 メジャーデビューを果たしたあと、私たちは仕事に追われ休む間などない毎日を送っていた。彼はなんてこと無く仕事をこなしていたが、知らないところで身体には相当なストレスが溜まっていたらしい。 数ヶ月前、朝起きると音也は耳が聞こえなくなっていた。 ストレスやライブの音源、生活習慣の乱れなどで突然に難聴を起こす歌手は珍しくないというが音也の発した病気は更に重たいもので医師のいうように治る事がないものだった。 なんとかならないのか。そう何度も抗議した。しかし医師は黙って首を横に振るばかり。
その件があってから音也は芸能界の活動を無期限休止することになり、この大きな病院で療養を続けていた。 耳の聞こえないということは同時に話すこともできないということで私と音也の会話は全て筆談で行われた。
ーー今日はいい天気だね
そう書かれたA4サイズの紙には語尾に太陽のマークが付けたされていた。 彼らしい陽気な雰囲気の文字に私のやや達筆な文字が返事をする。
ーーそうですね。けれど少し寒い。音也は寒くないですか?
ーー平気。…トキヤ、医者はなんて言ってた?
私は返事を書く手が止まった。 耳は治らない。 医者はははっきりそう言ったのだ。 しかしそんなこと音也に言えるはずがない。彼は再び音を取り戻せると信じている。
ーーもう少し様子を見ましょう、と。だけ。
ーー……、そっか。
すると音也は病室の隅にあるギターケースを指差した。取れ、ということなのだろうか。私は椅子から立ち上がり音也のギターケースを取った。
ーートキヤに聞いて欲しい曲があるんだ。休んでる間に作ったんだけどさ
それを渡すと音也は中から愛用のギターを取り出して慣れた手つきで弦を鳴らし始める。 音自体は聞こえていない筈だが覚えている音を頭の中で流して弾いているのだろう。聞こえていない耳で作ったとはとても思えない、しっかりとしたメロディだった。前向きで力強くて、けれど時折切ないその音たちは音也の指から生産されては病室の壁に、家具に、私の耳に吸い込まれていく。
ーー俺、もう一度歌えるかな
そう書いた音也の顔を見ると諦めがちに笑っていた。以前の彼らしくない、無理な笑顔だった。
「音也…、」
私は思わず彼を抱き締めた。音也の苦しさが伝わる。悲しさが伝わる。彼には聞こえない私の声で、私は何度も何度も彼の名前を呼んだ。
「……あなたが好きです、私はずっと、あなたが好きでした」
音也には聞こえることのない告白をした。(意味のないことをしている)抱き締めているせいで音也の顔は見えないし返事が聞ける筈もない。 抱き締めたときに伝わる彼の温もりに私は泣きそうになった。ふわり、と。頭を撫でる感触がする。 音也が私の髪をあやすように撫でる。 音也を慰めたくて抱きしめたのに、逆に自分が慰められているなんて馬鹿みたいだと思いながらわたしは音也の肩で泣いた。
その数日後だった。 音也が屋上から飛び降りたのは。
揃えられた靴にはメモが挟まれていた。 "ごめんなさい。 音のない世界では生きれない"
たった二行のそれは確かに音也の文字で遺書だった。
空っぽの病室には誰もいないはずなのにあの日音也が弾いていた曲が聞こえる気がした。 私には聞こえる。 死の音が。音也の残した死の音が聞こえる。それはとても静かだ。 死の音は無音だった。 音也にとって音楽がこの世の全てだったのだ。葉が擦れる音、雨の日に跳ねる水、ギターの音、誰かの声、自分の声、、この世にあふれる全ての音で彼は構成されていた。
私は病室に残された音也との筆談用紙を掻き集めた。数ヶ月間もの間に彼との会話はすべてここに記されている。 数枚目を捲るとある文字が目にはいる 。
ーー何もない。ここには。何も。
音也が入院してすぐの会話だったと思う。 この紙の最後はその文字で終わっていた。 私が返事を返していないからだ。
「私が……いるじゃないですか…、」
もしもあの時そう返事をしていたら、彼は自殺を留まっただろうか。 何故言えなかったのか。 彼がもしそれを否定したら? それが怖くて言えなかった。彼がいない今になって口にした所で何の意味もない。
彼にとって音は世界の全てだった。 私にとっての世界は音也だった。
130119
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