雑踏の中、自分が記憶喪失だと気が付いたあの日から、早一年。
覚えているのは自分の名前くらいで、何処から来たのか、家族はいたのか、今まで何をして生きてきたのかも思い出せなかった。とりあえず病院に行ってみたけれど体はすこぶる元気で、「おそらく記憶喪失」という分かりきった診断を受けただけ。そして身分証明書もなく、もちろん保険証もお金も身寄りない私は病院を抜け出した。
地理も常識も何も知らないし、更にいうと私は文字すら読めなかった。それが記憶喪失だからなのか、教育を一切受けてこなかったのかも不明。
そんな身空でこの一年、死に物狂いでなんとか食いつないだのだ。
そしていま目の前には、「めしどころ ごはん」という定食屋が建っている。


「……つまりお前は、身分証明書が欲しくてハンターになろうっていうのかい」
「ええ、そういうことです」


いい匂いを漂わせる店の前で、私をここまで連れてきてくれたお兄さんがため息をついた。
彼はハンター試験のナビゲーター。志望動機を問われたので答えたまでだが、こんな理由で試験を受ける奴は初めてだそうだ。

「お前ねぇ、ハンターライセンスの価値がわかってんのかい」
「お兄さんこそ、身分証明書がないってどんだけ不便か知ってます?」

部屋も借りられないし、まともな仕事も付けないし、病院代なんかバカ高いんですよ。私はその不便さを身を以て知っているんだ。
呆れ顔ながらも「ま、頑張れよ」と言ってくれたお兄さんに頭を下げて、私は定食屋のドアを開けた。





エレベーターをおりた先にあったのはだだっ広い坑道。そこにひしめく数百人の人間。熱気か、警戒か、漂う空気も地上とは全く違う。
ドアが開いた瞬間、数人が振り向いたが、すぐに顔を逸らされた。若い女だからだろう、何人かの口元には嘲笑が浮かんでいるのが腹が立つ。まあ確かに見回してみれば、受験生はガタイの良い男ばかりだ。
渡された400番のプレート(キリが良い)を胸元に付けた時、背後のエレベーターが開き、何の気なしに振り向いた。

「何人くらいいるんだろうねー」

陰鬱とした雰囲気にそぐわぬ、明るく高い声。純朴そうな少年はキョロキョロと周囲を見回している。
なんだ、子供もいるんじゃん。自分よりも年下だろう少年を見つけて、なんとなくホッと息をついた。それなりに緊張していたんだと自覚する。

安心した次の瞬間、耳を劈くような叫び声が木霊した。人混みのなかにポッカリあいた空間、真ん中に座り込む男は両肘から先がなく、恐怖に顔を歪めている。その前に立つのは奇妙な格好をした男。その周囲に誰も近付かないところを見ると、腕がないのは奴の仕業らしい。
ゾクリと体に震えが走る。試験は始まってもいないのに、こんな事件が起こってしまう、そんな世界なんだ。


「おっと、あんたにもやるよ、これ」

俯いていた視界にヌッと入り込んだのは缶ジュース。思わず視線を上げると、人の良さそうな顔をした男がジュースを差し出していた。その背後には先ほどの少年と、その連れだろう受験生が二人。

「私に?」
「そうさ! あんた新人だろう? お近づきのしるしさ!」

ぱちぱちと瞬きをしながらも缶を受け取る。後ろの三人の手にもジュースが握られており、この人――トンパというらしい――が新人にジュースを配っていることを知る。
殺伐としたこんな空気のなか、良い人もいるんだなあ。じんわり感動して御礼を言おうと口を開く。

「ありが」
「トンパさん、このジュース古くなってるよ! 味がヘン!」

口に含んだジュースをそのまま吐き出した少年を見て、プルタブに掛けた指を離した。

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