今日は追加の仕事もなくて、めずらしくはやく家に帰れた。ボルサリーノは正義のコートとスーツのジャケットをダイニングのテーブルに投げて、開いたままふせてあった本をとった。生前の暴君くまが、いつも大切そうにかかえていた聖書と同じもので、つい先日、ボルサリーノが本屋で買ったものだった。三分の一ほどまではすすんだが、娯楽小説のようにわくわくする気持ちもなければ、専門書のような知識があるわけでもなくて、そろそろやめてしまおうかと何度も思っていた。それでもつづきを読んでいるのは、くまがなにを考えていたかがわかるような気がしたからだ。ベガパンクをのぞいて、バーソロミュー・くまという人間が、ひとを殺すためだけの機械になるのを、いちばん近くでみていた自覚がボルサリーノにはあった。
二人がけのソファにねころんでつづきをさがす。背がたかいボルサリーノにはすこしきゅうくつで、肘掛に頭をのせても脚がはみ出してしまっていた。
ぱらぱらとページを捲り、ようやく見覚えのある単語をみつけて目で追いはじめると、さわがしくドアがあいた。さえこが乱暴に靴を脱ぎすてる。
「ただいまかえりました。」
家でふたりきりだとさえこはいつも靴をぬぐ。そのほうが調子がいいのだそうだ。ボルサリーノがなんど言ってもやめないので、今では彼女の好きにさせていた。靴下も脱いでしまって裸足でふらふら歩いてくると、倒れこむように、ボルサリーノの腹に頭をのせて、ソファのそばでうずくまる。ボルサリーノは本を片手に持ちかえて、さえこの髪をなでた。
「おつかれさん。合同訓練はどうだったかな?」
「問題なく動けたと思います。ただ、みてもらってるのとはずいぶん勝手がちがうので、手こずりました」
「まわりに合わせるっていうのは、なれないと難しいからねぇ」
「はい。次はもっと上手くできるようにがんばります」
ボルサリーノが手を離してページをめくった。そのようすをながめていたさえこが、なにかを思い出したように顔をあげた。
「あの、ひとつきいてもいいですか?」
「なんだい」
「訓練のときにボルサリーノとの関係をたずねられたんですけど、私はなんとこたえるべきだったんでしょう」
聖書を読むのをやめて、ボルサリーノがさえこのほうをみた。その表情にはおもしろがるような色がある。
「君はなんて言ったんだい?」
「いっしょに住んでいます、と」
ボルサリーノには、さえこに話しかけた海兵のようすが目に浮かぶようだった。きっと、とても驚いたはずだ。
さえことボルサリーノが同棲するようになって一年以上たつが、そのことを知っているのはほんのひと握りだった。べつに隠しているわけではなかったが、自分からすすんで他人に言うようなことでもないとふたりとも思っていたので、きかれないかぎりは教えないことにしていた。
「恋人だとは言わなかったんだねぇ」
そして、ふたりが付き合っていることを知るのもすこしの人間だけだった。恋人をもったことことのなかったさえこは、ボルサリーノとの関係をそう形容するのにいまだ慣れないようで、とっさにたずねられても答えられないことが多い。
「……わすれてました」
ボルサリーノは喉の奥を鳴らしながら笑った。ゆるやかな振動がさえこにも伝わってくる。なんだか馬鹿にされているような気がして、さえこはぶすくれる。
「恋人らしいことはあまりしてくれないじゃないですか」
「一緒に住んで、セックスして。これ以上恋人らしいことはないとおもってたんだけどねぇ」
汚れを気にすることなくさえこをかかえると、ふたたびソファに沈んだ。ふたりぶんの重みにスプリングがきしむ。変わらずむすっとした表情のまま、さえこがボルサリーノをみつめる。
「……キスしてください」
「おやすいご用さぁ」
ボルサリーノは笑みを深めて、さえこにくちづけた。歯のうらをなぞり、彼女の舌をかすめていく。もどかしくなったさえこが追いかけようとして身を乗り出す。バランスが悪くなった彼女をささえるようにボルサリーノが腰をつかみ、空いたほうの手でズボンをぬがそうとしたが、ぺちりとはたかれた。それと同時にさえこが離れる。
「明日も仕事なのでだめです」
「手厳しいねぇ」
まいったというように両手をあげた。そのようすがおかしくて、さえこはくすくすと笑ったあと、ふたたび身をのりだして、今度はふれるだけのキスをした。
「でも、さっきはとても素敵だったので、あさって続きをしましょう」
「それはいい考えだ」
「でしょう」
さえこは身体をゆだねると、今日した訓練についてくわしく話しはじめた。ボルサリーノが経験したものとはずいぶん変わっているようで、それもそうかと思いながら相づちをうつ。ただの一兵卒にすぎなかった自分が、いまや海軍の最高戦力などと呼ばれ、もて囃されるようになったのだから。
「たのしかったようだねぇ」
「はい。……ですけど、ボルサリーノがいないとさみしかったです」
「こんなにいっしょにいるのにかい」
「ずっといっしょだからだと思います」
ふだんさえこはボルサリーノの秘書のようなことをしていて、仕事をしている時間の大半を彼のそばですごしていた。訓練もボルサリーノがじぶんでみているため、今日のように特別なことがないかぎり、日中に顔を合わせないということはまずない。
「そうかい。しばらくは訓練もないだろうから、さみしくならないよ」
「それはうれしいです」
笑って、ボルサリーノの腕の中でもぞもぞと動く。それからまた話しはじめたが、徐々に言葉はとぎれとぎれになる。
「さきに寝てきたらどうだい」
「いっしょじゃないのは、いやです」
さえこはかたくなにひとりになることを嫌う。ボルサリーノはその理由を知っていたから、彼女に無理に直せとは言えなかった。それに、恋人にこうして求められるのは、老いたといっても関係なくうれしいことだった。
さえこがやすらかな寝息をたてはじめると、ボルサリーノは読みかけのページに軽く目を通し、しずかに本を閉じた。
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