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ーー死ぬことが怖くて、逃げたのではなかったか。

七海はふと思い返していた。呪術師の仕事と一般人の仕事。そのどちらも、労力とそれに伴う疲労に大差ないと知って戻ってきたものの、生死をかけるか否かという点においては雲泥の差がある。呪術師は酷たらしく死ぬことが当たり前だと思っていた方がいい。高専時代の同級生の、目もあてられないようなあの死にざまを見てそう考えた。そしてそれが恐ろしくて、嫌になって、七海は逃げたはずだった。

「七海さん?」

七海は呼ばれた方に視線を巡らせて、ああ、と嘆息する。ーーさえこか。

「どうしたんです」
「書類でちょっと、分からないことがあって」

さえこが現れて、頭の中が氷解していくような感覚があった。地に足がついているとでもいうのだろうか。彼女のあり方は良くも悪くも現実的だった。どのようにしてそこにあるかが鮮明で、多すぎることも少なすぎることもない。すべてが整っていて丁度良い。
七海は脚を組み変えたあと、さえこの困った顔を見る。眉毛がハの字になっていて心なしか泣きそうな表情。本当に助けを必要としているのだろうな、と七海は思い、そのことに少しの満足感を覚えた。
きちんと自分のあり方を分かる器用さを持ちながら、さえこはいつまで経っても事務仕事がうまくならなかった。七海が教えるのが何度目か、もう数えきれないくらいに。物覚えも物わかりも悪くないのになぜできないのか不思議だった。

「顔、なんだかこわかったです。もしかして体調が悪いですか?」
「……いいえ、そんなことはありません」

物思いにふけるからそう見えるのか、体調が悪いから物思いにふけるのか。両者のうち自分はどちらだろうかと七海は考えた。おそらく後者だ。澄んだ水面に投げ込まれた泥が広がり沈んでゆくように、調子のあがらないときほど、纏まらない思考が絡み合ったまま深いところへ潜ってゆこうとする。

「それより、どこが分からないんですか?」
「あ、えっとですね……」

書類の中の不明点を探すとき、さえこはいつも唇をとがらせる。今日もそうだった。七海はしずかにそれをみつめながら、なんとなく不明点が見つからなければいいのにと思った。知人のありふれた癖を見出し、そこに安堵の念を覚えながら沈黙する時間。ささやかな日常生活のごく一部が、永遠に続けばいいのにと七海は思う。こういった安寧のことを幸せというのかもしれない。

「さえこさん、一緒に食事にでも行きませんか」

さえこがきょとんとしたあとに、ええと、と考える様子を見せる。七海は遅まきながら後悔した。これでは道化だ。柄にもないことはするべきではないしーー率先して自らを縛りつけようとする必要もない。しかし一方で、七海はずっとさえこのことが好きで、そしてそれが少なからず肉欲を伴う類のものであることも分かっていた。
さえこはしばし言い淀んだあと口を開く。

「正直びっくりしました。けれど私なんかでよければ、よろこんで」
「私なんかとは言わないで下さい。あなたでないと、わたしは嫌です」

すらすらと愛の告白に近い言葉が出てくる。自分はいつからこんなにも情熱的になったのだろうか。堰をきってしまえば、もうあとは流れるがままに七海は身を委ねた。自分はさえこが好きなのだ。そして、食事を共にしたいと思っている。それで十分ではないか。

「ところで、わたしの方こそ少し意外でした。てっきり断られると思っていましたから」
「どうして?私、七海さんにずっとアピールしていたのに」
「……いつからですか?」
「秘密です」

うふふ、と笑ったあとに、ところで、とさえこは言う。洋食と和食どちらが好きか。さえこは真剣な面持ちで問うたが、その様子は七海にとって非常に可愛らしいだけだった。

「どちらでも」

あなたと一緒なら、何でも楽しいに違いないから。七海がそう答えると、困ったなあ、とさえこは眉をハの字にする。先ほどの、書類に困らされている時とはまるで異なる様にちいさく微笑んだ。そして少女のようなひとだ、と七海は思う。

「書類はもういいんですか?」
「ああっ!」

さえこは腕時計を見て、もうこんな時間、と慌てだす。不明点を明らかにしないまま、さえこは広げていた書類をまとめだす。彼女にとって分かりきったことなど、どうでもいいのだろう。

「七海さん!あとでごはんのことをメールしてもいいですか!」
「もちろんです。わたしが誘ったので、わたしの方から送っておきます」
「ありがとうございます!」

さえこは手を振り、急ぎ足で立ち去った。七海は穏やかな気持ちでそれを見送り、彼女とどこに行こうか思考を巡らせる。さえこはどんな場所なら喜んでくれるのだろうか。幾通りもあるさえこの反応を想像しながら、七海はどの店にしようかと考える。
束の間携帯が音をたてた。あたたかな感触が消え失せて、七海は自分の脳が芯まで冷静であることを思い出す。体温がゆっくりと下がってゆく感覚。仕事だ。ぐっと握りこんだ七海の右手に、生き物であって生き物でないものたちを屠る感触が蘇る。
今度も果たして生きて帰れるのだろうかと、どんな任務に就くときでも七海は考えていた。相手が弱かろうと強かろうと関係なく。どんな状況で形勢が逆転するかなど分からないのだと、かつて学んだから。

ーー灰原の死が、仲間たちの死が頭から離れない。

一切の犠牲なく積み上げられたものがないように、あまねく事象すべてが何らかの犠牲の上に成り立つ。しかしここはそれを身近に感じすぎる。半ば強制的に、自分達が他のものの上にあるのだと目の当たりにさせられる。
いつか自分が、さえこの死を見届けるのだろうか。あるいはその逆か。どちらであろうと、と思い、七海は深いため息をつく。そして未だ鳴り続ける電話をおもむろに取る。



お題、七海さん。
過日実施したリクエスト企画でした。