どこもかしこもバレンタイン一色で、さえこはそのことにうんざりした気持ちになった。足取りが重くなる、というのはこういうことか、と考える。
「バレンタインは嫌いかい?」
「……あげないから」
「まだ何も言ってないよ」
袈裟を脱いだ夏油は、どこにでもいる好青年のようだった。くすくすと笑うさまは実年齢より幼い。さえこがじっとりと睨むと、おおこわい、と言う。
「別にくれなくていい。甘いものは好きじゃないからね」
その言葉に素っ気なく相槌をうつと、はやく過ぎさろうとばかりにさえこは足を早めた。夏油は離れてゆく彼女の腕をおもむろに掴む。
「なに?」
「……すまない、何でもない」
掴んだ夏油のほうが驚いていた。さえこはじっとその様子をみつめたあと、なにかを思いついたように口を開いた。
「チョコレートをあげられなくてごめんね、傑」
さえこはさっきまで突っ込んでいたコートのポケットから手を抜きだして、夏油とつなぐ。指と指が絡みあい、あたたかかった手が外の空気でかじかんでゆく。さえこの指先が冷えるのを感じながら、夏油はぎこちなく頷いた。
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