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01




潮のせいで赤茶けた髪をねじり、邪魔にならないように高い位置でとめる。さえこはいくつかのエプロンのうちから、ピンクのラインが入ったものを選んで身につける。ほんとうなら、ひとつで十分なはずのものがいくつもあるのは、カタクリがなんども彼女に与えたからだ。

「おい、紅茶は」
「はいはい、ただいま」

おおきめのやかんを火にかけて、さえこは食器棚からティーセットをとりだし、ポットに茶葉を入れる。どの紅茶がどうだとか、彼女はそういった方面には明るくない。よくわからないまま選んだありふれたものだ。はじめて出したとき、カタクリが文句を言わなかったので、以来ずっと同じものにしている。
湯気がではじめたあたりで、やかんをコンロからおろした。お湯をポットにうつし、はい、とカタクリの前に置く。紅茶の淹れ方はわからないです、とさえこが言ったら、自分でやるからいい、と言ったのだ。頬杖をついて、カタクリが懐中時計をながめはじめたのを確認して、さえこはキッチンへと戻る。
月に一度や、あるいは週に一度、不定期に、カタクリはさえこが作るドーナツを食べたがった。いちばんはじめ、ろくに料理をしたことがなかったさえこは、できません、と断った。すると次の日、カタクリはドーナツをつくるために必要なものを全部持ってきた。断る理由のひとつとして、道具がないことをあげたからだ。おいしくないですよ、とさえこが言っても、かまわないと言ってきかなかった。さいごには彼女のほうがとうとう根負けして、わからないなりになんとかドーナツを作った。油はぎとぎとしていて、うまく火が通りきらず、生地には粉っぽさが残ったひどいものだった。カタクリは、まずいまずいと言いながらも残さずたいらげた。
さえこは練った生地を型にいれ、押しだして油のうえに浮かべる。ぱちぱちと気泡がつぶれて、こんがりとした良いにおいがあたりに漂った。それにつられるように、カタクリがちらりとさえこをうかがう。菜箸を持ちあげた彼女の右腕、肘までまくられた服の裾から、濃い傷痕がのぞいている。カタクリはそれをみつめ、眉根を寄せたあと、はばかるように目を伏せた。
さいごのひとつを揚げおえたさえこが、かちりとコンロの火をとめた。

「できました」

山のように盛られた、質素なかた揚げドーナツがカタクリの前にあらわれる。巻いていたファーを無造作にとりさったあと、おおきな手で器用にひとつ、つまみ上げてちびちびと食べはじめる。

「おまえのドーナツは、相変わらずまずいな」

しみじみと、かみしめるように呟く。そうですか、とさえこは言って、椅子の背もたれに外したエプロンをかけた。それから自分もティーカップを持ってきて、紅茶をそそいで、カタクリのとなりに座った。

「ああ、とてもまずい」

カタクリは丁寧にひとつ食べおえると、もうひとつを手にとった。さえこはその横顔をながめながら、彼も自分もずいぶん老けたものだ、と思う。
カタクリは四十をこえていて、あと二、三年もすれば五十歳になる。夕暮れどきに交わしたあの約束から、三十年以上がすぎたのだ。
ーーおれから、離れていかないでくれ。
いつもどおり、いじめっ子たちを追い払ったあとだった。閑散とした広場の隅で、さえこの手を握りながら、カタクリがぽつりと言った。泣きそうな顔をした、すがるような眼差しの男の子。自分よりずっと大きな身体をしているのに、そのときだけ、彼がとても小さく感じられたことをさえこはおぼえている。

「まずかった。ありがとう」

皿のうえのドーナツが、ひとつ残らず消えた。さえこがうれしそうに笑いながらティッシュをさしだすと、カタクリは受け取って口もとをぬぐう。

「いえいえ。まずくてすみません」

さえこは汚れものを持つと、腰をあげた。カタクリはそれを取りあげて、ふたたびテーブルに置く。

「さえこ」

カタクリがさえこの目をみつめた。さえこの喉がふるえる。

「さえこ」

わなないたさえこに焦れたように、カタクリがまた名前をよんだ。さえこはあきらめたように、おもむろに上のシャツを脱ぐ。日に焼けていない、白い上半身。その右腕の、前腕のなかばから、肩の付け根を通り過ぎてわき腹まで、彼女の肌のうえに深いひび割れが横たわっていた。とくにわき腹のまわりには、高温のせいでできたケロイドまである。
醜い痕だ、とさえこは思っていた。彼女自身でさえ、そうなんども直視したいものではない。なのに、カタクリは事あるごとに見たがった。

「さえこ、いいか」

さえこの右手をてのひらにのせて、カタクリがたずねた。その瞳にあわれみはなく、ただ純粋に彼女のゆるしを待っている。さえこはいつも、このまなざしに気圧されてしまって、頷く以外のことができなくなる。
腕からはじまって、ときおり噛んだり舐めたりしながら、カタクリはあますことなく傷痕に唇をはわす。さえこ、さえこ、とうわごとのように彼女の名前をくり返す。彼の長いまつ毛が影をつくるのをながめながら、さえこは、まるで自分が自分でなくなったような心地がしていた。



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