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銀さん布団敷いてくる、と言って和室へ消えた銀さんの背を見送った後、俺は神楽に視線を向けた。

「…神楽、あの犬、触ってもいい?」

さっきから触りたくてウズウズしている俺は、飼い主である神楽に許可を求めた。勝手に触るのは気が引けるし。

「いいアルよ。定春っていうアル」

許可を得たところで、そっと伏せている定春に近づき、正面に立つ。いきなり触って驚かせるのは本意じゃない。万が一本気で噛まれたら、一瞬でお陀仏になるかもしれないのだ。洒落にならない話はまっぴらごめんだ。

「…定春、触ってもいい?」

一声かけてみたが、反応は無し。声かけたから大丈夫かな、沈黙は無言の肯定っていうし…。犬にその言葉が適用されるかはわからないけど。
そっと定春のほっぺたを触ってみる。おお、ふわふわと感動した次の瞬間、視界が真っ暗になった。微妙に生暖かい。噛まれたと理解するのに数秒かかった。

「定春噛んじゃダメアル!ぺっしなさいぺっ!」

神楽が俺を引っ張って、定春の口から引き出そうとしているのが分かった。強い力で噛まれた訳ではないから簡単に脱出出来たけど、噛まれたという事実がショックだった。まあ、定春のことだから噛まれる可能性は考えてたんだけどね、やっぱ実際やられると、なんていうか…。

「ワンッ」

「…今のは甘噛みだよな?定春」

血が出てないし、強く噛まれてはないからもしかしたらと思って訊いてみた。軽くではあるけど尻尾振ってるし…肯定、だよな?

「…触るぞ?」

もう一度声をかけ、今度は恐る恐る手を近付けた。顎に触れ、そっと手を滑らせる。

「…ありがとう」

気持ち良さそうに目を細めた定春は、僅かに首を仰け反らせ、もっともっとと言うように無防備な姿を見せた。良かった、と安堵して、顎だけでなく身体も撫で回した。
その姿に神楽が驚きの声を上げた。

「定春が気を許すなんて珍しいアル」

「何、もう定春手懐けちゃったの?」

布団を敷き終わって戻って来た銀さんまでも、驚いた表情をしていた。
まあ、確かに簡単に手懐けられる生き物じゃないから驚くのも無理はない。俺だって正直驚いてる。

「定春って可愛いよな」

「どこが可愛ーんだよ、そんな凶暴犬」

ガブ。

「ほらな、凶暴だろ?」

「…いや、凶暴犬って言ったから噛まれたんじゃ…」

銀さんの頭に牙を立てている定春は、なんてことないように尻尾をゆっくり振っている。一方噛まれている銀さんは、頭から血を流しながら顔を引きつらせている。
漫画でよく見る光景に、密かにテンションを上げた。
しかし、結構血流れてるけど大丈夫なのか?本人は平気そうだけど…慣れてたりして。

「場所ねーから神無は俺と同じ部屋で寝てもらうけど、いいか?」

「あ、うん。大丈夫」

「そっか。寝たい時に寝て構わねーからな」

「了解」

先寝てるからな、と言って銀さんは洗面所へ消えた。歯磨きだろうか。
時計を見れば、九時三十分を示していた。意外と早寝みたいだ。俺なんて日付越えは当たり前なのに。

「もうこんな時間か。そんなに経ってないと思ったんだけどな」

「本当アル!酢昆布買い忘れたネ!」

この世の終わりとでも言いだしそうなくらいのショックを受けた顔の神楽は、すぐに玄関へ身体を向けた。
店にでも行くつもりだろうか。いやいや、まさか。
が、予想は的中。買ってくるアル!と言って走りだした神楽の襟首を慌てて掴む。

「待て待て神楽!こんな時間に店はやってねーぞ!」

「酢昆布ないと、私生きていけないネ!」

「なくても生きていけるから!明日行こう、な?」

本当に酢昆布好きだなオイ!
そんなことを思いながら、必死で引き止める。コンビニならやってるだろうけど、第一酢昆布があるかどうか。それに、こんな夜道を女の子一人で行かせるわけには…。

(ん?神楽強いし問題ないか?)

ぶっちゃけ俺より強いだろう神楽に危険なんて言葉はおかしいかもしれないが、それでも危険は危険。ここは引き止めるべきだ。

「…分かったネ。神無が言うなら仕方ないアル」

最初こそ渋ったものの、おとなしく諦めてくれたことに胸を撫で下ろした。神楽のことだから、力ずくでも行きそうな気がしたからだ。俺の力なんて神楽と比べたら本当に微弱なものだから……あれ、なんか男としての威厳なくね?男としてどうなの?

「もう遅いから寝た寝た!はい歯磨きして布団直行」

哀しくなってきた気持ちを誤魔化すように神楽の背を押し、洗面所へと向かわせる。訳がわからないといった顔をしながらも、頷いて洗面所へ向かった背を見送ってソファへ座り込む。
今まで浮かべていた笑みを消し、小さくため息を吐いた。

「…俺、やっていけるのかな」

ぽつりと零した不安は、静かになった部屋に消えていった。
ずっと抱えていた不安。わりと自由に行動してきたけど、根本的な気持ちは拭い去れないまま。
暫く宙を見つめ物思いに耽ってから、銀さんの眠る寝室の引き戸に手をかけた。


2011.12.14

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