小説 | ナノ


残留する願望


手帳に仕舞っていた写真を取り出す。多少色褪せてはいるものの、経った月日の割には綺麗なまま残っていた。
写っているのは一目で不健康そうな印象を与える男子学生と、隣でにこりと笑う女学生。
二人は肩が触れるほど近くに立ち、こちらを見つめている。
本当に、綺麗なままだ。







「これ覚えてる?」

名前は、偶然出てきましたといった風に向かいに座る中禅寺に写真を差し出した。

「懐かしいな。榎さんが卒業した時のものか」
「そう。先輩の卒業記念に便乗して撮ってもらったやつ」

中禅寺はもう一度「懐かしい」と目を細める。


昔から友人たちと変わらぬ生活を送ってきたが、うちはそれなりに由緒ある家柄らしい。それなり、というのは元華族だとか大層なものではないが親族は重大なことのように扱っている、というよくある話だ。
そのせいか、私の結婚には私の意思よりも優先されるものがあると告げられていた。それを知ってからは他人に用意される夫など受け入れる気はないとしぶとく抗い躱し続けてきたが、私の諦めの悪さは父譲りだったらしい。
父はとうに適齢期を過ぎた娘へ「こんな娘を貰ってくれる良い人がいる」と最終通告だといわんばかりの顔をした。

そして、私は俯くように首を縦に動かした。

納得したわけではない。それでも受け入れることを決めたのは、学生の時からの想い人は他人の物となり、曲がった背のせいで小さく見える父に哀れみと罪悪感を持ったからだ。

十数年抗った割には、あまりにもお粗末な幕引きだった。




「この頃に秋彦たちと出会ったんだよね。よくもまぁ揃いもそろって個性の塊みたいなのが集まってたよ」
「それを言ったら名前だってその輪の中に入るぜ」
「朱に交われば?冗談よして」

私は行儀悪く、足先で秋彦を小突く。

結婚について秋彦に話したことはない。だが共通の友人が多い仲だ、恐らく誰かしらから聞いているだろう。
何も言ってこないのは優しさだろうか。それとも藪蛇を避けているのだろうか。


「皆でお花見に山へ行ったこともあったなぁ。巽が渓流の側で足滑らせてびしょ濡れになってさ」
「あれの運動神経の悪さは一向に改善しなかったな。榎さんの落ち着きの無さもそうだが」
「そう、冬は榎さんに引きずられて雪合戦もしたし」
「僕の顔に雪玉を当てたのは誰だったか覚えているか?」
「そういえば雪だるまも作ったわね」
「君だ。それから名前は榎さんに連れ出されたが、僕を引きずり出したのは榎さんと君だ。すっとぼけるな」
今度は秋彦が私を小突き、僅かに口元を緩める。


思い出話は尽きなかった。
互いに一つ語るたび、色鮮やかに胸が満たされるのを感じた。だがそれを正直に言うのは照れくさく、「昔話に花が咲くなんていよいよ年を取った感じ」と皮肉っぽく誤魔化す。

「名前、君も大人になったということだろう。雪合戦をしなくなったじゃないか」
「根に持つわね」

果たして私は大人になったのだろうか。
秋彦の顔を見ているとここへ来た曖昧な理由がさらに朧げになる。昔の後悔を取り戻しにきたのか、決別しに来たのか。


「ねぇ秋彦」

多分どちらも違わないだろう。



「私、あなたと添い遂げたかった」



零れた言葉はしっかりと届いたらしい。
秋彦はしばらくの間僅かに目を見開き、口を動かしかけ、何も言わず押し黙った。私はその姿を焼き付けるように見つめる。
表情が読みにくい彼のことだ。寂しげに見えるのは私の願望かもしれない。


ずっと秋彦が好きだった。とっつきにくい印象から最初こそ距離を取っていたものの、好意を持つのにそう時間はかからなかった。
淀みなく語られる深い知識。気難しい顔をして意外と冗談を言うこと。桜のそばに立つ不健康そうな姿。冷たい雪にさらされて赤くなった鼻。ふとした時緩められる口元と下がる眉。名前、と呼ぶ低い声。

焦がれた記憶を辿るほど、どうしようもなく身体の奥が締め付けられる。
私は目を伏せるようにして秋彦を視界から外した。





どれくらいそうしていただろうか。互いの呼吸が聞こえそうな中、おもむろに秋彦は立ち上がり「お茶を淹れ直してくるよ」と静かに残して座敷から出て行った。

足音が聞こえなくなって暫くして名前もゆっくりと立ち上がる。
ふと思いつき、積みあがる本の山の奥から適当に一冊抜き出し、握った写真を挟み込んだ。

この写真を見ると、恋しさに突き動かされて彼に触れた瞬間を思い出す。シャッターが押される直前、私から手を握った。自分とは違う大きくて少しかさついた感触にいっぱいになり、相手の顔をうかがうこともできず、繋いだ姿が写らないように身体でそっと隠した時のことを。その背の後ろで、私の手と同じ強さで握り返してくれたことを秋彦は覚えているだろうか。


ふいに涙が溢れ、紙の上をぱたぱたと濡らす。慌てて袖で抑えるが、あっという間に文字は滲み紙はゆるく波打ってしまった。

未練がましい水滴だ。
子供の自分にとって、覚悟を持って生きることや叶わない可能性のあるものへ代償を払うことは、得体の知れない靄のようで恐ろしかった。
そして今、たらればと過去を妬むには時が経ちすぎている。
それなのにあの熱が未だ手のひらにこびり付いているのが悔しい。
綺麗に残った写真が苦い。




遠くから足音が近づいてくる。
私は鼻をすすり、本を元の場所に戻してそっと夢想する。
いつか彼がこれを見つけた時、あの日を懐かしんでくれるだろうか。今日のことを思い出すだろうか。

色褪せた写真がその目にどう映るのか、二度と確かめられないことが少し悲しいと思った。