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花を捧げる腕の中


 軍に入った直後、志願一般兵は全て軍の所有する訓練施設に送られる。志願一般兵は大体が休畑期の農民で、剣の振り方もろくに知らない素人だ。これを即戦力にするために、本当に基本的なことだけを数週間に渡って柔らかな身体と脳味噌に叩きこまれ、この訓練施設を無事卒業すれば本格的にどこかの兵団に振り分けられることになる。
 先祖代々酪農を営み、家督を継がないからと追い出された私も軍に志願兵として入った。同期と同じように訓練施設で剣や槍の基本的な扱い方や、軍規や命令の座学を詰め込まれ、嵐のように数週間が過ぎる。たった数週間で、私の身体は入軍以前とは劇的な変化を迎えていた。家の手伝いで牛の世話をしていた時も肉体疲労を強いられたが、軍のそれとは比較にならない。訓練施設を出る頃には酪農家の娘は存在せず、私は数多いる雑兵の一人となっていた。

 卒業が言い渡された後、教官から配属を叫ばれる。兵はここで初めて自分の配属先を知るのだ。教官によって淡々と名前が呼ばれていく。呼ばれた兵は威勢のいい返事でそれを承る。
 順番は訓練施設に入った時に与えられた番号に順じているので、各々自分の名が呼ばれるまでの時間は分かっていた。次に呼ばれるのは私の名前だ。教官は竹簡に視線を落としたまま、怒声に近い大声で私の運命を告げた。

「ナナシ。関平将軍の近衛兵!」
「、はい!」

 訓練された兵は身動きに雑音を立てたりはしない。身体の側面に指先まで力を込めた手を添えた直立姿勢のまま、ぴくりとも姿勢を動かさず、黙している。しかしその視線が訝しげに、いくつかこちらに向けられたのを感じた。

 訓練施設を出たばかりの一般兵にとって、将軍の名付きの配属は珍しかった。
 普通は番号で名の付いた部隊に所属し、経験を積んで誰かの将軍の下に行く。一番いい成績を取って訓練施設を卒業するような優秀な兵士は将軍の名の付いた部隊に配属されることもあるが、数百、数千人の部隊の末尾に名を連ねるだけだ。圧倒的に席の少ない将軍付きの近衛兵などに配属されるわけがない。

 ……どう考えても非常識な所属先に数秒思案したが、理由はいくつか思い当たった。私は訓練施設でも珍しい女だ。女の方が便利なこともあるだろう。近衛兵とは名ばかりで、諜報として女しか潜入できない場所に使われたりするのかもしれない。村から出て来たばかりでよその軍や将軍と何ら付き合いの無い、血縁も後ろ盾もない、ある種この軍中では天涯孤独とも言える。誰々に損得を、と考える縁も無いので、ますます暗躍にはもってこいなのだろう。
 自分を納得させ、呼び続けられる名を耳に流し込みながら、次第に視線が散っていくのを感じた。






 関平将軍の名は知っていた。関羽将軍の養子という肩書と共に。ただそれだけで、顔も知らなかった。

「本日から将軍の元でお世話になるナナシです。厳しい指導をよろしくお願いします」

 拱手して頭を下げると、「よろしく頼む」と思ったよりも柔らかな声。促されて顔を上げると、まだ若く、優しそうな目鼻立ちの男が微笑を浮かべていた。いかにも『いい人そう』な雰囲気を放っている。体格のいい長身の、服の合間から垣間見える刀傷でようやく戦場に立つ男だと分かるほどの柔和さ。それさえなければ農家だと紹介されても違和感を抱かなかっただろう。

「拙者は関平。是非諱で呼んでくれ」
「恐れながらそれは承りかねます」
「そうか。確かに訓練所を出たばかりではおかしいか。では『関平殿』、これにしよう」
「恐れながらそれも承りかねます」
「困ったな……。貴方から将軍と呼ばれるのは抵抗があるのだ。頼む。この通りだ」

 そう言って何の衒いもなく頭を下げようとするので、私は慌てて「関平殿!」と絶叫した。一般兵に向かって頭を下げるとは何を考えているのだろう。関平殿は頭を上げたが、その表情は明るかった。

「本当か! うん、それが違和感が無い」

 満足げな関平殿が、益々分からなくなった。

 関平殿の執務室は立場に合わせて広々としたものだった。部屋の中には私と同じく近衛兵と思われる筋骨隆々とした男が存在感を殺して立っている他、数人の女たちが掃除や書簡の整理に動いている。女たちの顔は楽しげで、関平殿が普段からこの調子で振る舞っていることを想像させた。
 窓から差し込む日光が室内を照らし、爽やかな風が吹き込んでくる。窓の向こうには新緑の庭園が見え、目にも楽しい。部屋の雰囲気はそのまま関平殿の性質を表しているようだった。

「関平殿、ご命令を。私は一体何すれば?」
「貴方も配属されたばかりで分からないことが多いだろう。仕事の詳細は他の近衛兵から聞くのが良いと思うが……拙者が最も貴方に求めるのは、鍛錬に付き合ってくれて、他の用事に付き添ってくれるような……拙者の盾となるというよりも、良き影となって欲しいのだ。ああ、影と言っても隠れて欲しいわけではない。ただ信頼できる相手が欲しい時に、貴方が一番にいてさえくれれば」

 苦笑しつつ言葉を選ぶ姿に違和感が生じる。話し相手が欲しいなら女官でもいいし、手合せがしたいのなら近衛兵の一人や他の兵で良さそうだ。言い知れぬ納得のできない疑問が沸いたが、頭を縦に振る以外に私にできることはなかった。

「最初のうちは戸惑うこともあるだろうが、そのうち分かってくれると思う。さ、早速だがこれから軍議が入っている。来てくれたばかりで急だが、一緒に来て欲しい」
「はい」

 無言で腕を組んで会話を聞いていた近衛兵が関平殿の言葉を合図に動き始め、扉を開け、関平殿の前を歩き道順を取った。近衛兵、関平殿、私。他に誰もいない。となれば私が最後尾を守るべきだろう。そう思って関平殿の背後を取ると、「隣を歩いて欲しい」と頼まれた。隣でも不届き者から守れぬこともないが……なにせ訓練施設から出たばかりの兵だ、隣を歩くなど畏れ多い。

「私は訓練施設を出たばかりです。隣では本来の役目を果たせぬかと」
「訓練所を出るくらいの腕前があれば大丈夫だ。それに、貴方に後ろを歩かれるのはなんだか落ち着かないのだ。どうしてもと言うのならば拙者も無理強いはできないが、できることなら隣がいい」

 屈託のない表情で言う関平殿の意志を聞き入れぬわけにもいかず、渋々隣を歩くことになった。
 後ろを歩かれると落ち着かないと関平殿は言うが、隣を歩くのは私が落ち着かない。






 一日の用事が終わり、関平殿を屋敷まで送り届けた後。時刻は夕暮れ時になっていた。結局一日中同じ行動を取るはめになった口数の少ない近衛兵が口を開いた。

「酒でも飲まないか」

 私としてもこの仕事に対する疑問が山のようにあったので、願っても無い申し出だった。一つ返事で了解すると、近衛兵は黙して歩きはじめるので、私は慌ててその後を追った。

 飛び込んだ飯店の卓を挟んで座る。卓には訓練施設では見かけることの叶わない華やかな料理が並んでいたが、無口な男はそのほとんどをこちらに押し付け、酒ばかり飲んでいた。どれだけ飲んでも顔が赤らんだり表情が変わることはなく、石を投げ込んでも波打たない湖面のように思えた。
 勧められたままに料理を口に運ぶ。爽やかな辛さとほんのりとした甘味が癖になりそうだった。賑やかな店内の雰囲気も結構好きだ。この町に来てすぐに訓練施設に入ったから、都の飯店の話など全く分からない。いい店を教えて貰ったなと思った。

「将軍が訓練所に視察に行った時、俺も一緒にいた」

 近衛兵が突然口を開いたので食べていたものを喉に詰まらせそうになった。軽く咳をする私に無口な男は目もくれず話を続ける。

「将軍は訓練の様子を見て回った。剣を振る拙い動作の農民兵を真剣な目で見ていた」
「それって、私のいた訓練施設ですか?」
「無論」

 無口な男は言葉少なに肯定しながら厳かに頭を縦に振った。

「将軍のように訓練所を見て回る将軍格は少なくない。己の見定めた兵を己の旗下に引き込もうとする」

 私は今日まで関平殿の顔を知らなかった。同じように、他の名だたる将の顔も知らない。訓練施設に外部の人が視察に来ることは珍しくなかった。今更あれは名のある将軍の視察だったのかと分かった。一握りの優秀な兵は卒業してすぐに将軍の名付きの部隊に配属されるが、それもその将軍が実際目で見て気に入ったのだろう。

「ナナシ、お前も将軍は見ていた」
「……それで、その時に」
「ナナシを将軍は見つめていた。気に入られたのだ」
「でも……私は特に太刀筋が良かったように思いません」
「俺もそう思った」

 無口な男は頷いた。明日から扱かれそうだなと苦笑する。

「将軍は悪いお方ではない」
「はい」
「将軍は善良だ、ひたむきだ、自分の行うべきことを迷い、お優しさ故にどのような存在も捨てられない」
「はい」
「ナナシのことも捨てられなかった」
「……私、捨てられそうなほど弱かったんですか?」

 無口な男は首を横に振った。胸の前で腕を組み、石像のように動かなくなる。
 無口な男はそれ以降関平殿のことは話してくれなかった。近衛兵としていかに振る舞うべきか、どういう自主訓練をすればいいか、余計な言葉を一切使わずに話した。酒が瓶の底をつき、全く酔っていない無口な男と店の前で解散した。

 宿舎に帰る道の途中、無口な男が関平殿について語った話を反芻していた。私は剣だって強くなかったし、座学は剣よりは優秀だったがそれも一番を取るほどではなかった。何かを気に入られた。一体何だろう。訓練施設に入ってからは容姿も男のそれに近付いた気がするし、元々美人だったらとっくに嫁に貰われている。性格、を見せる程近くで接してはいないだろう。
 何かを気に入られたのならそれを伸ばしたいし、そうすることで関平殿の役に立ちたいと思った。武も知も美も人並み程度の私にとって、関平殿に気に入られた何かを失えば、関平殿に良くして頂いた恩を返せない。直接聞くべきか、それとなく探るべきか、今夜無口な男から聞いた話を全て知らない素振りをするか……この問題は数日に渡って頭を悩ませることになった。






 構えた剣にずしんと大剣の重い一撃が乗り、耐えられずに弾かれた剣は宙を舞い、数十歩ほど距離のある土の上に突き刺さった。訓練用に刃を潰した剣と大剣だったから良いものの、そうでなければ刃が飛び散って細かな傷を肌につけたに違いない。何より、訓練場に私たち以外の兵がいなくて良かった。万が一部外者が巻き込まれて怪我でもしていたらと思うと、冷や汗が頬を伝う。
 まだ痺れる手首を庇いつつ、訓練の相手――関平殿に頭を下げる。関平殿は一瞬前までの気迫のある荒々しい武将の顔を解き、今や心配そうに眉尻を下げていた。

「すまない、つい気合が入ってしまった。怪我は無いか?」
「いえ、骨が折れるようなことはありません。冷やせば治ります」
「そうか。……誰か!」

 関平殿がよく通る声で人を呼ぶと、屋根のある場所で見物していた女官が氷や布を持って駆けつけて来た。石でできた段差に座らされ、女官に手首の治療を受ける。女官は馴れているのかその動作は非常に滑らかだった。
 女官が私の手首の面倒を見ているうちに、関平殿は宙を飛んだ剣を拾って戻ってきていた。女官に怪我の具合を聞き、私が言ったのと同じことを言われてやっと微笑みを見せる。

「拙者の下についた当初よりも強くなった」
「関平殿に稽古をつけて頂いたお陰です。本来は逆であるべきなのに……すみません」
「近衛兵でも手合せで拙者に勝てる者は滅多にいない。勝敗は別だ。貴方と戦っていると、拙者も自分の弱点を新たに見出すことができる。助かっている」

 にこにこと笑いながら人の良い答えを返す。関平殿はよく笑う。無口な男のような近衛兵や、彼の下で働く女官たちが彼を慕っている理由が良く分かるというものだ。関平殿は目上も目下も尊重し、嫌味ったらしさを感じさせない。実直で、優しくて、施す余裕を裏付けるかのように腕が立つ。非の打ちどころが無かった。
 私もすっかり関平殿に参っていた。この人の為になら何の役目でも負いたいと思っていた。私の仕事は関平殿が初日に言った通り、どこまでも彼に寄り添って彼の言いつけを聞くことだったが、困難や痛みを伴う命令は何一つ無かった。

 彼の役に立ちたい。何だっていい。私にだけできるようなこと。その為ならどんな犠牲でも払いたい。盾として命を使われてもいい。しかし盾になるのだって技術が必要だ。私は近衛兵の同僚のように、咄嗟に盾になれるだけの技術が、瞬発力が、果たして備わっているだろうか……?

 私が余程思い詰めた顔をしていたのか、関平殿が焦り始めた。腹でも痛いのかと尋ねてくる。私は首を横に振った。
 治療が終わり、女官が立ち上がる。そのまま去って行くかと思えば、ぴたりと制止した。続いて拱手する。直後に靴が土を払いながら誰かがこちらに近付いてくる音が聞こえ、私と関平殿は同時に顔を上げた。
 立っているのは短い黒髪が美しい、しなやかな身体を持った女性だった。目鼻立ち涼しく、女にも喜ばれそうな顔をしている。その服装は一見いい家の姫君のような華やかな装飾に溢れているが、よく見れば機能的で、何かが起こればすぐにその剣を抜いて戦えそうなものに見えた。ただの姫ではないことは一目瞭然だった。
 その女性はまっすぐに関平殿を見ていた。関平殿は立ち上がりながら女性に声を掛ける。

「星彩! 珍しいな、訓練場に来るなんて」
「関平に用事があった。諸葛亮殿が、」

 そこで星彩と呼ばれた女性は女官の陰になっていた私に気付いた。ちらりと視線を向けられ、私は慌てて立ち上がる。

「こちらは拙者の近衛になったナナシだ。この前書面で話しただろう、星彩に似ていると」

 関平殿の言葉を聞いて、星彩殿はじっと私を見た。目力がある視線には圧力を感じるほどで、星彩殿の顔立ちが整っていることもあり、力を抜けば目を逸らしてしまいそうになる。あと数秒も持たない、と思った瞬間に、星彩殿はふいと視線を関平殿の方に向けた。

「似ているとは思えないけれど」
「そ、そうか? 拙者にはよく……ああ、顔とか、身長とかじゃなくて、なんとなくの雰囲気というか……」
「分からない。諸葛亮殿が探していたから早く行って」
「、ああ、分かった! 伝えてくれてありがとう、星彩!」関平殿はそこで私に向き直った。「拙者は諸葛亮殿の所に行ってくる。言葉を撤回してすまないが、片付けを頼めるだろうか?」
「はい。承知しました」

 関平殿は離れた場所で待機していた無口な近衛兵を伴って諸葛亮殿の執務室の方へ走って行く。訓練場に残されたのは私と星彩殿、そして女官の三人だ。接点である関平殿がいなくなってしまうと、途端に気まずくなる。

 星彩殿はどこから見ても私とは身分の違う人に見えた。私も女官も星彩殿より先に動くことはできない。星彩殿の動きを伺っていると、彼女は私が抱えていた練習剣を一本取り上げた。

「関平の代理」

 華やかな服装に粗雑な練習剣は似合わなかった。その言葉は関平殿のように頑なで、断っても意味がないだろうという予感がした。

 それ以上に彼女と話がしたかった。関平殿は星彩殿は随分と親しい仲のようだった。関平殿は妻帯者ではない。男女の親しげな様子をすぐに色恋沙汰に直結させる思考は持っていないが、分かり辛い星彩殿の表情はともかく、関平殿の言葉には少しの緊張が混じり、頬も握る拳にも普段よりも力が入っていた。何か特別な仲だということははっきりと分かった。これでも私は女の端くれなのだ。
 加えて、関平殿が言っていた星彩殿と私が似ているということ。星彩殿のことを私は今まで聞いたことが無かった。

 訓練用の器具を片付ける倉庫に行くために、練習場の真ん中を二人で横切った。練習用とはいえしっかりと重みのある剣を抱えて星彩殿の姿を盗み見る。ただ立っているだけで雰囲気のある人だが、歩く姿も美しい。容姿の美しさというよりも、見ているだけで気が入るような、人の気持ちに影響を与える力がある。こういう女性になりたいと自然と思えた。

「幼馴染なの」

 星彩殿は脈絡なくそう口にした。一拍置いて星彩殿の発言を理解する。星彩殿の視線は相変わらず前へと向けられていた。

「それで仲がよろしいのですね」
「最近はもう滅多に会わないけれど」
「どうしてですか?」

 ようやく星彩殿がこちらに視線を向けた。さきほどじっと見つめられた時のような、逃げ出したくなるような威圧感は感じない。やや伏せられたまぶた、切れ長の目に宿る繊細な心の動き。女なら貴方も分かるでしょうと言いたげな表情に、はっと心が奪われた。
 それは一瞬で、星彩殿は再び前を向いた。

「訓練場にもあまり足を運ばないようにしてる」
「……」
「もう私はあまり彼を見てあげられないから、これからは貴方に任せたい」
「星彩殿の代わりをしろと言うことですか?」
「そう」
「務まるでしょうか」
「できる、貴方なら」
「私は星彩殿と違って関平殿と長い交友も無いですし、腕も人並みです」
「関平は私と貴方が似てると言った。関平は貴方を私と同じくらい信頼している。それが証拠」

 何かを言い返すよりも早く、目的の倉庫に辿り着いてしまった。備品管理の兵とやり取りをしているうちに、気付けば星彩殿は消えていた。見れば既に役目は終わったとばかりに去って、その背は今訓練場を出ようとしているところだった。
 後はこちらでと言うので練習剣を備品管理係に預け、私も訓練場を後にする。その時にはすでに星彩殿の姿は見えなくなっていた。私は星彩殿の詳細な配属を知らないし、私の予想通りなら、私が望んでも会うことの叶わぬ立場のはずだ。

「星彩殿は、間違っている」

 周囲から人が消えると独り言が漏れた。

 きっと訓練施設で関平殿が私を見つけてから、ずっと私を通して星彩殿を見ていたのだ。私のどこか、関平殿にしか分からないところに星彩殿を見出して。だから訓練施設を並の成績で卒業してすぐの、何の用にも立たない私を関平殿は採用し、近衛兵にし、身近に置くことにした。
 関平殿が星彩殿を見る目は、私を見る目とは違っていた。どんな些細な表情の変化をも捕えようとするかのような目。じっくりと彼女を見る目は、自分と相手以外の誰かが存在することを忘れていそうなほど熱っぽかった。少し上擦った声、目下の私を気遣う時とは違った優しさ。それでいて、必要以上に踏み込まないように自重している振舞い。
 関平殿が星彩殿に思慕していることは火を見るよりも明らかだった。星彩殿もそれを知っている。星彩殿が訓練場に訪れなくなったのは、関平殿を避けるためだ。関平殿も決して星彩殿が手に入らないことを理解している。だからこそお互いに距離を置いて……関平殿はそれでも星彩殿を思っている。

 彼の期待は私が星彩殿になること、それだけだった。最早手の届かぬ星の代わり。彼は私に、それを期待している。きっと悪意もなく、純粋に心地が良いと感じて。幼馴染が共にいるのは自然なことだから、私が傍にいるのも自然だと。
 だとしたら、私が彼の役に立つためには何をすればいいのか……。ぼやけていた輪郭が浮き立ち始めるのを感じた。

 ふと視線を上げると、衣装室の前だった。衣装室の真向い、回廊からも見える位置には、私の身長よりも大きな鏡が設置されている。意識せずとも視線が合った。
 長い髪だ。黒髪は後頭部で結ってある。それを纏めている髪飾りは、何年前に買ったものだったか……あまり色気の無いものだが、それを見ているだけで無性に過去の自分を軽蔑したくなった。

 ――この髪も今日中に切ってしまおう。うんと短く、そう、首を隠さない長さまで。

 決めてしまえば、この特別美しくもない、何の役にも立たない黒髪を今日まで伸ばし続けたのが馬鹿らしくなった。こんなの何の価値も無い、ただ煩わしいだけのものだ。






 ひと思いに切った髪を、関平殿は喜んでくれた。わざわざ書き物仕事の手を止めて、関平殿は柔らかな表情を浮かべる。

「よく似合っている。短いと動きやすそうだ」
「ありがとうございます」
「ところでどうして突然切ったんだ? 長い時は長い時で似合っていたが……」

 関平殿の口は緩んでいた。耳より少し長いくらいの、切り揃えられた黒髪。生まれてからずっと長くしていたので新鮮で、しかし悪い気はしなかった。
 関平殿が喜んでくれると思ったから。それも一つだ。短い方が彼女に似ていて好ましく思われるだろうという確信はあった。どんな形であれ、信頼を寄せてくれる関平殿に喜ばれることは嬉しい。
 同時に、何よりも自分のためだった。昨日、衣装室の鏡の自分と目が合った時、急激にその結ってある長い髪に違和感を持った。沸き立つ嫌悪感を一日だってそのままにしておくことはできなかった。

「武人なので、女のような長い髪は不要かと思ったのです」
「武人でも長い髪をしている方はいるが……」
「関平殿の仰る通り将軍でも長い髪をお持ちの方はいますが、そのような方々が持つ長髪の風格を私はまだ持ち合わせておりません。長髪が似合うほどに強くなったら、また長くするのもいいでしょうが……とにかく今は似合わぬと思ったのです。容姿の問題ではなく、心持ちの問題として」

 そこで執務室の花の世話をしていた女官が自分の仕事に一段落ついたらしく一言挟んだ。

「私は長い髪を揺らすナナシ様、凛々しくて素敵だと思っていましたよ。同じ女性が殿方と肩を並べて働く様子が、我がことのように誇らしいと」
「容姿がそんなに大事でしょうか」
「大事ですよ。ナナシ様は女性ですもの。女性の身で殿方と負けず劣らずのご活躍――私たちの憧れです」

 女官は花の作業中に机に零れた水を布で拭き取ると、会話を中座して執務室を出て行った。

「……私は今の髪、気に入っています」
「せ、拙者も今の方が好ましいと思う。どちらにしろ、他人の評価に惑わされず貴方の思うようにするのが一番いい。貴方のことなのだから」
「そう言って頂けると心が軽くなります」

 大体、女性の憧れと言われても困るのだ。私は関平殿の役に立つために、全てを投げ出し、捧げたいと思っている。関平殿以外の人に勝手に期待され失望されても、何も響かないし、彼女らの気持ちを汲むどころか、気に掛けることすらない。関平殿以外の期待は迷惑だ。

「昨日、訓練場で会った女性……」
「星彩か?」

 星彩殿の名を出すと、関平殿は明らかに雰囲気を変えた。いつも真面目そうな引き締められた表情が少し緩んでいる。

「はい。とても素敵な方でした。同じ女性だからということではなく、武人として彼女のようになりたいと」
「拙者もそう思う……。星彩は拙者にとっては幼い頃から共に鍛錬を積んだ幼馴染なのだ。星彩は拙者が目標にする姿の一つだ」
「……」
「拙者とは違う戦場に行ってしまった今も……星彩は星彩なのだ。拙者の憧れの一つだ。昨日久し振りに姿を見て、息災で、相変わらず星彩らしくて……それを確認できただけでも良かった」

 笑みは含羞とも寂寞ともつかない色が混じっている。

「……関平殿は星彩殿のことを……大切に思っているのですね」

 私はかろうじてそう口にした。お慕いしているのですね、と真実抱いた感想は口にするのが憚られた。危うい均衡でなんとか成り立っている関平殿と星彩殿の関係に昨日今日で二人を知った私が気軽に入り込めるわけがなかった。それに関平殿が星彩殿への愛情の名を知ったところで、今更平穏に全てを解決できるわけではないのだ。
 関平殿が賢しく、自分をよく知っていたとしたら。二人の間にもっと良い未来が訪れたのかもしれない。しかし全ては『今更』だった。生真面目な関平殿も、その関平殿の『目標にする姿の一つ』である星彩殿も、無責任な行動を取るなんて想像もできなかった。今の人間関係や、期待や、責任を全て放り出してしまうような奔放さは二人には備えられていなかった。

「関平殿は私も星彩殿のようになれると思いますか?」
「星彩のように?」

 一瞬面食らったようだったが、次の瞬間には苦笑が漏れる。その笑みは先ほどまでの根深い何かを持った笑みとは違って、随分簡素で平たいもののように思えた。

「貴方がなろうと志し、励めば望みの通りになれるだろう。星彩にも、何にでも。拙者も自分自身に向けてそう思い、励みにしている。いつかのあの父上のように、自分もなれると」

 関平殿は執務机から立ち上がると、励ますように私の背を軽く叩いた。これから兵の演練を見に行く予定があるはずだ。無口な男と共に執務室から出て行ったのを確認して、私は背に、関平殿が触れた部分に手をやる。
 未だにあの生温い、ひと肌の残り香があるような気がした。

 ――私が星彩殿だったとしても、彼は今のように触れただろうか。

 身体の内から沸き立つ衝動に目の前が白く黒く瞬いた。そうであればいい。そうであれば。
 星彩殿が短い髪を揺らして剣を振るう、記憶にないはずの景色が広がった。目にしたことのように鮮やかに再生される光景に、抱く感情は陶酔というよりも野望への希求だった。貪欲にああなりたいと願っている。星彩殿になって、関平殿が手に入れたくても叶わなかったものを埋めて差し上げたい。関平殿が私と星彩殿の違いが分からなくなるほどに彼女に近付くことができたならば、それが最も素晴らしい、夢のような未来だ。
 生まれてこれまで抱いたことのない夢、希望、そんな嘘くさい言葉が、身体の末端まで染み渡っていく心地がした。それはなんとも気持ちの良いものだった。

「あの」

 いつの間に部屋に戻って来たのだろう、関平殿と会話していた時に私の前の髪型が良かったと言っていた女官が声を掛けてきた。そこで飛んでいた意識がここに、関平殿の執務室に戻って来た。忘我の白昼夢から目覚めた私は、それでも多幸感から覚めることのできないままに返事をした。

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