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約束は心臓に還ります


(※夢主は死ぬ)

 司馬懿には人に見られると困るものが多かった。司馬懿は三国統一の為という大義の下、人から悪だと謗られるようなことも多く行った。暗殺の為に人を雇って愚鈍な輩を抹消したり、金で他人の主義を買ったり、裏で繋がっている政治家と普段は仲違いをしているように見せ、対立している風を装い自分達の都合のいいように会議を進めたり……寧ろ表での活動よりも、裏での活動の方が勝つ為には重要だった。
 表で勝負を始める時点で、既にこちらの勝因は全て揃っているのだ。その為に影で行われる行為を、疎むことなど一度だって無かった。準備に手を尽くして勝利することの何が悪いのか。金や人脈、邪道な手段を使うことの何が悪いのか。全ては民の希求する平和な世のため、才知を有した自分が、才知を与えられなかった民の代わりに手を尽くしているだけなのだ――。
 だからこそ、その手で剣を握ってナナシを斬った時も、気後れするようなことはなかった。書類の数字を改竄するように淡々と、冷静に、彼女の胴に剣先を食い込ませ薙いだ。目的を思えば躊躇もなく――よくあることの一つだった。

*****

 ナナシは許昌で働くある文官の雑用係だった。足が速く頑丈で、女にしては方向感覚がしっかりしていたので、主に他の官吏への連絡係として使われていた。あまり頭の良い女ではなかったが、仕事をやる分には困ることはなかった。人の顔や名前を憶え、その所属や屋敷を記憶することは得意で、逆に文字を読めないことは利点だったのかもしれない。上官に渡された竹簡の文字を辿ることはできず、内容の分からない手紙を届けた結果、その手紙の中身に立腹した相手から斬られそうになったことはいくつかあったが……例えば宛先を間違ったり紛失したりするような失敗らしい失敗はしたことがなく、重宝されていた。

 その日も上官から渡された竹簡をいくつか懐に入れ、ナナシは執務室を飛び出した。いくつかの言伝を同時に任せられることは少なくなかった。竹簡は一見どれも同じように見えるのだが、上官にどれが誰宛てだと直接指導されれば、手紙の相手を混同することはなかった。
 いくつかの執務室を巡った後も、ナナシの手元には数本の竹簡が残っていた。執務室や軍議室、書物庫を覗けば大抵の場合は目当ての相手がいたのだが、その数人だけは病気で休みを貰っていたり、急な用事で屋敷に戻っていたのだ。ナナシは一度上官の執務室に戻ると、いきさつを告げ、残りの竹簡を届けるために町に出た。
 真昼の町は活気に満ちていた。通りは人でごった返し、客引きに声を掛けられるのを無視しなければならなかった。ナナシは自慢の足で人々の合間を潜り抜け、一番近くにある司馬懿の屋敷に向かった。名門司馬、それも魏の参謀として名高い司馬懿の屋敷は、非常に大きなものだった。城壁のごとく左右に伸びる生垣はその権力を思わせ、尊大にそびえたっている。自分が悪い企みを持った不届き者ならこの生垣を見るだけでも気が滅入ってしまいそうだとナナシは思った。仕事で何度も訪れた屋敷だが、見る度にその豪奢さに圧倒されてしまう。
 ナナシは意を決すると、正門から敷地内へ踏み込んだ。反対側が分からない程大きな屋敷の前に立ち、戸を叩こうとすると、どこかから微かな金属音が聞こえた。装飾品を落としたような軽い音だった。
 戸を叩こうとした手の甲が固まる。もしかしたら誰かが倒れているのかもしれない。病気で突然倒れた家族の記憶が、ナナシにそう思わせた。何の前触れもなく、人は倒れるものなのだ。もしくは立ち上がることも声も出すこともできない誰かが、自分に助けを求めたのかもしれない。
 正義感と……ほんの少しの好奇心が、ナナシを突き動かした。ナナシは正門から入ってすぐの屋敷の正面玄関以外、司馬懿の屋敷を知らなかった。どれほど大きな屋敷か庭を見れば分かるかもしれないと、そんな興味もあって、ナナシは戸を叩くことをやめて庭に踏み入った。

 庭は庭師を入れているのか整えられていた。部屋の窓からこれを見られるのは幸せ者だろう。花は季節のものを揃え、派手すぎず、地味すぎず、品良く並べられている。学の無いナナシにも易々と触ってはならないことが直感では分かった。間違っても花や木に身体が接触しないよう、足音を殺しそろそろと歩みを進める。もうすぐ裏手に出る。

 屋敷の壁を曲がると、二人の男が見えた。一人は仕事の目的の男、司馬懿だ。細身の身体、長い髪、神経質そうな雰囲気。筋骨隆々といった感じではないのに、静かな威圧感を漂わせる不思議な男だ。ナナシは城でこの男と擦れ違う時も毎回緊張するくらいだ。
 もう一人は知らない男。地味な色合いの服に身を包んだ男。鋭い眼光を司馬懿に向けている。

 空気が緊迫していた。司馬懿は胸ほどの高さに掌くらいの大きさの皮袋を掲げていた。何かを言いながら揺らすと、かちゃかちゃと微細な音がする。先ほど聞こえた『装飾品が落下したような音』はこのことだったのだとナナシは思った。誰かが倒れているような重大な出来事でなくて良かったと安心している場合ではない。身を撫でるような空気は、警告を示している。――見てはいけないものだと。

 後退りして正門に戻ろうと足を動かした時、その極々小さな、ナナシ自身ですら耳に入らなかった砂音に、名の知れぬ男が反応した。瞬時にこちらに視線を向け、ナナシと視線が合う。一拍遅れて司馬懿の視線もナナシの方に向いた。名の知れぬ男は体重を忘れさせるような動作で軽やかに生垣の向こうに消える。消えたあとは気配もなく、幻のように跡を残さなかった。残ったのはナナシと司馬懿の二人だ。

「あの、見ていません、聞いていません、何も」

 司馬懿が口を開くよりも早く、ナナシはか細い声で抵抗した。見てはいけないものを見てしまった、その恐怖で身がすくむ。司馬懿が一歩、こちらに足を出した。無表情のまま静かに近づいてくる。

「黙っています。誰にも言いません」

 枯れた声で叫んでいるような音が口から出た。司馬懿は歩みを止めない。逃げなければ、と思うものの、足が動かない。まるで呪いにでも掛けられているようだ。

「し、」

 眼前にまで迫った司馬懿に、ナナシは何か言おうとした。懸命の命乞いを。決して見ていないという誓いの言葉を。

 しかし司馬懿にとってそんなことはどうでもいいことだった。

 司馬懿は腰に差してあるお飾りの剣を抜き――剣は本来の役目を果たした。

*****

 衣服に血を滲ませた女が地に伏せ、土を握り締めてくぐもった声をあげた。追い打ちが必要かと血が滴る剣を再び持ち上げたが、その必要もなく女の手が弛緩する。そういえば昔、妻が『見てはいけないものを見た』女を同じように殺したなと思い出す。
 最早動かなくなった女の衣を借りて刃に付着した血を拭う。鞘に戻すと、屋敷の中に声を掛けた。

「誰かいるか!」
「はい、只今……」

 出てきたのは飯炊き女だ。仕込みの最中だったのか、前掛けで濡れた手を拭きながら出てくる。司馬懿には人の好い笑顔を向けていたが、すぐに司馬懿の隣に伏せる女の死体を発見し顔をひきつらせた。顔を白くし今にも失神しそうなほどだった。

「間諜が忍び込んだので殺したのだ。慌てずとも見た通りもう害を成すこともない」
「そ、それは大変なことでございます。それで、お怪我は……」
「敵も馬鹿な間諜を送ったものよ。武器を抜く間もなく斬り伏せてやったわ」
「はぁ、安心いたしました。司馬懿殿に何かあったらどうしたものかと、」
「手の空いている男を数人呼んでくれ。これを片付けるには人手がいるのだ」

 司馬懿は死体を爪先で小突いた。飯炊き女は恐縮して縦に頭を数度振り、屋敷の中に戻って行った。
 屋敷で働く数人の男を指揮し、司馬懿は女の死体を山に捨てた。その頃には日も暮れており、見通しが悪く、車に乗せた死体に布を被せて城壁を抜ければ、誰も咎めるようなことはしなかった。山に穴を掘り、その中に女を捨てた。
 『女は間諜である、敵軍の者か政敵の者かは分からない、このことは自分が取引材料に使うので死体は屋敷で働く身寄りのない女のものということして、他言無用のこと』、司馬懿はそう事情を説明した。似たようなことは数度経験しており、作業した男たちも動揺した様子は無かった。

 屋敷に戻り、今後のことを考えた。昼間会っていた用心深い男は、姿を見られてしまったのでもう自分とは二度と取引をすることはないだろう。腕の立つ男だと聞いていたので惜しいとは思うが、仕方の無いことだ。屋敷で取引をしようとした自分が愚かだったのだ。
 女を斬って殺めたことについて悔やむ気持ちは一つも無かった。死体を雑に扱ったことにも。騒動のことで思い返したのは、有用な男を捕まえ損ねた、ただ一点だった。

*****

 司馬懿は小麦畑の中に立っていた。見慣れた小麦とは種類が違うのだろうか、頭の上まですっぽりと覆うほどの身長を持った小麦が視界の限りに広がっている。司馬懿の周囲、人の身長ほどの距離を半径とした円の空間は小麦も植わっておらずに自由に動けるのだが、その円を少しでも出れば先が見えないほどぎっしりと群生し、来た道も分からない。見通しの効かない空間の中、風も吹かず、人の気配も感じなかった。真上から差す殺人的な陽光に汗が頬を伝い、司馬懿は手の甲でそれを拭う。荒れ果てた砂地とは違う肥沃な土の香りが鼻に纏わりつき煩わしい。
 ここは一体、と司馬懿は思い返す。ただ、自分はこの場所から逃れなければいけないという強烈な観念があった。しかし理論派の司馬懿は、理由なく行動を取る欲求を持つのが自分で不自然でならなかった。行動するよりも早く思考するべきなのだ、『何故自分はここから離れなければならないのか』。そう思うものの、身体が勝手にここを立ち去ろうとして壁のようにそびえる小麦へと向かう。思い通りに身体が動いてくれない。

 その時、ぴたりと背中に何かが寄り添った。
 一瞬前までここには自分の他誰も存在しなかった。その筈だ。しかし今は背後に誰かがいる。小麦の中に隠れていたとして、それを折って進むような音がしたはずだがそれもない。まるで『忽然と現れた』ように感じられた。
 脂肪を多くつけた曲線のある身体は女のものだった。眼前には小麦が堅く密生し、後ろの女から逃れるのも苦労が必要そうだった。女はなめくじのように背側から手を伸ばし、抱きしめるように衣服の上から胸のやや下に触れた。指先でくるりと円を描く。

「貴方は私のここを刺したわ」

 女は司馬懿の耳元で静かにそう言った。口が耳の近くにあることは分かるのに、息が吹きかかる感触はしなかった。指先はくるくると円を描き続ける。

「貴方は私のここを刺したの。私の言葉を一つも聞かずに」

 女の言葉に温度は無い。故事でも読むように感情を持たなかった。

「それから横に刃を滑らせたわ」

 円を描いていた指先が、右に流れて行く。司馬懿は息を吸い込んだ。長く水中に潜っていたのを、もがいてやっと水面に顔を出したような心地がした。

「何の話だ」

 言葉を出せば、再び水中へと押しやられる。汚泥のような水の中に。頭を抑え込まれているかのように息が苦しい。

「それからここも蹴ったわね」

 女の指は、今度は左耳のやや上を撫でた。掌の感触。

「覚えが無い」
「ええ、無いでしょう。貴方は些細なことは何だって覚えていないのです。覚えている必要の全く無い些細なことは」
「詰まらぬ恨み言を吐いて何になる。凡愚の相手をしている暇は無い、消え失せよ」
「された方は忘れないわ」
「凡愚は凡愚らしく場所を弁えればいいのだ。天下の行く末を左右する者を、貴様のような奴が妨害する道理は無い」

 司馬懿は腰に下げている剣の柄を握った。振り向きざまに斬りつけようと軸足ではない方の足で地面を蹴りつける。衣服の袖が風になびき、剣は女の胴に突き刺さる、そのはずだった。
 しかしそこに女はいなかった。一瞬前まで確かにそこにいたはずの存在は、現れた時と同じように忽然と消えていた。少しだけ刃が触れた小麦の茎と葉が宙に舞うのみで、他に動くものすらない。司馬懿はきつく目を細めた。

「どうした、どこに行った……?」
「そうやって誰にでもすぐに殺そうとするの? 随分せっかちなのね」

 河原に女の低い笑い声が響き渡る。その声は右から、左から、前から、後ろから、空、地、全ての方向から聞こえてくるようだった。司馬懿は声の主の姿を探したが、自分を囲うように群生する小麦が自分を嗤う妄想に取りつかれ、姿も知らぬ女を探す余力も無かった。笑い声は徐々に高らかになり――ふいに途切れて静寂が襲った。

「な、」

 どん、と身体に衝撃が走る。胸の少し下に深々と突き刺さっているのは、司馬懿がいつも下げているお飾りの剣だった。衣に鮮やかな赤が咲き、少しずつ染み広がってゆく……。

 ……ふと気付くと暗闇の中だった。荒い呼吸で胸元を探るが、そこに剣は突き刺さっていない。ぬめるような感触もない。目を凝らしても見慣れた模様があるだけで、血が染みているようにも見えなかった。
 手で触れる柔らかな布の感触、薄らと見える天井と壁、微かに聞こえる虫の音。落ち着いて周囲を探れば、そこは見馴れた寝室だった。

「やけに五感に訴える夢だったが……」

 ふうと息を吐きがてら、司馬懿は独りごちた。土の香り、女の声、肌を焼くような日差し……どれも現実に体感したように、はっきりと記憶に残っている。むしろ現実に体験したものよりも明確な気すらする。
 まだ窓の外は暗い。起床までにはまだ余裕がある。司馬懿は再び身を横たえた。暗闇の中に徐々に部屋の光景が輪郭を持ち始める。
 記憶に残らぬ夢は多い。感情に訴えるような恐ろしい夢とはいえ、目覚めてもなおはっきりと思い出せる夢はそれだけで意味があるに違いない。太陽が昇った後にもまだ覚えていたならば、夢を紐解く必要があるだろう……。

 悪夢のせいか身体は気怠く、休息を要求している。司馬懿としてもいつ睡眠を取れるか分からぬ身だ、今すぐにでも眠ってしまいたい。しかし数秒前まで心臓が早鐘を打っていたからだろうか、まぶたを下ろしても眠りの世界に旅立てそうにはなかった。寝返りを打って逆方向を向くと、鼻がぶつかりそうなほど近くにぬっと足が二本並んでいた。
 心臓が止まりそうになるほど驚愕し、司馬懿は自分でも分からぬ動きで急遽距離を取った。寝台から転げ落ちるように遠ざかり、腰に手をやっても就寝の際までは剣を差してはいない。血の気が引いてゆく。暗闇に馴れた目が、寝台に立つ二本の足の持ち主を映し出す。それは女だった。

「だ、誰だ!」

 思わず大声を出し、女を睨みつける。女の姿には既視感があった。女は何も言わない。

「名を名乗れ。すぐに人が来る。どこの者だ、貴様は!」

 司馬懿は続けて女に言葉をかけたが、女はじっと司馬懿を見るだけだった。その視線はじっとりと湿り、恨みがましくこちらを見るだけだ。廊下を走る足音がいくつか聞こえるのを捉えながら、司馬懿は女に警戒を続ける。
 どこかで見た女だ。それは確信がある。どれほど昔のことか、どこで見たのか、そちらに関しては思い当たらなかった。

「司馬懿様、いかがなされましたか!?」

 数人の男や女が寝室に飛び込んできた。司馬懿の屋敷で住み込みで働く者たちだ。司馬懿はそこでようやく女から視線を外した。

「この者が、私の寝所に忍び込んだのだ」
「は……この者と申しますと?」
「馬鹿めが! あの女が見えぬかっ!」

 察しの悪い男に怒鳴りつけるが、男も女も揃って寝室を見回すだけだった。いくら寝室の中が暗いからとしても馬鹿馬鹿しすぎる。司馬懿は内心悪態を吐きながら寝台の方を指さした。

「寝台の上に、」

 司馬懿は言いながら寝台を見……女が忽然と消えているのを見た。

「な、」
「寝台の上でございますか」
「……」

 男や女が寝台に近寄る。彼らがこの部屋に入るまで、司馬懿は一瞬たりとも彼女から目を離さなかった。それが彼らを見るために視線を外した途端にこのザマだ。彼らが雇い主である自分を訝しげな眼で見てくる。一番信じられないのはこの場にいる誰よりも司馬懿だ。起こり得ないことがたった今起きたのだ。
 司馬懿は――自分を殺すことにした。

「どうやら勘違いのようだったらしい。日の上がらぬうちに起こしたな」
「司馬懿様は昼間のことでお疲れなのですよ」
「ゆっくりとお休みになられてください」

 彼らは挨拶をして部屋を辞した。雇い主の悪口でも言い合うのかもしれない。

 一人になった寝室の中で、司馬懿は女のいなくなった空間を見て彼らの言葉を思い返していた。

「昼間のこと……。そうか、あの女、見覚えがあると思えば……」

 寝台の上からこちらを見つめていた女は、昼間斬った女に似ていた。顔の印象、何より衣服が似ている。斬った時のように衣服を赤く染めてはいなかったが、安物の生地の植物柄は同じだった。
 そういえば、と司馬懿は夢の中の出来事を思い出した。あの感情を失くしたような声は、昼間斬った女が最後に何やら喚いていた声と似ているような気がする。こちらは確信が持てなかった。昼間の事件の時、はなから女の命乞いを聞く気などなかったからだ。耳に入れようと思ってなかった。

「この私が手ずから斬った女が夢に出、その上現実でも化けて出たと……? 馬鹿馬鹿しい……」

 声に出して否定しても、寝室のしんとした空気の中、誰に拾われることもなく虚しく霧散するだけだった。
 風の無い晩だ。じっとりと首を汗が伝う。握り締めた拳の中がぬめった。喉が渇く。

「斬ったくらいでいちいち夢に出られたら、晩が足らぬわ」

 司馬懿は笑ったが、無理に笑っているのが自分でも分かった。馴れ親しんだ寝室の空気に押し潰されそうだ。

「私が何人葬ったと思っている。この手で……人に斬らせ……夜襲を雇い……指揮を取れば数えきぬ程の敵兵を一度に殺めたぞ……」

 暗闇の中に音も無く存在する、少し汚れた足の肌、労働を示すざらつき、身に纏う衣の目立たぬ場所にあるほつれ。もっと美しかったならば、幻想だと一笑に終わらせられたものを、まるで息づいているかのように世俗に染まっていた。綺麗でないからこそ真に迫っていたのだ。その幻影を錯覚だと断じることができなかった。

 司馬懿はゆっくりと寝台に近付くと、膝を付き女の足があった場所にぐっと顔を近づけた。血で汚れてでもいれば確信も持てただろうが、他と変わらぬようにさらさらとした布の表面を晒しているだけだった。

*****

 女を斬って数日がたち、司馬懿は未だ女の幻影から逃れられずにいた。ふと視線を動かすと、暗がりに女がぬっと立っている。例えば遠くの民家の庇の下。例えば明かり窓の無い書庫の中。例えば夜の屋敷の庭。批難がましい目で司馬懿を見つめる。司馬懿との距離はまちまちで、うんと離れていることも、最初の寝台の時のように目と鼻の先にいることもあった。
 いずれの時も、少し目を逸らしているうちにいなくなる。遠くに見た時は正体を突き止めようと近付く為に移動し少し壁に遮られる合間に消え、近くに見た時は驚き後退りし武器を握ろうと視線を他に向ける合間に消えた。いずれも生きている人間にが消えるには難しい場所だ。司馬懿は徐々に正体を確かめる気が失せてきた。本物の死霊だったとしても、司馬懿の精神消耗を狙っている敵の小細工だったとしても、興味が無かった。女は好き勝手に近づいてくるが、こちらから近づくことは叶わないのだ。失敗を重ねるうちに、成功しても多大な報酬が期待できるわけではないこともあり、すっかり諦めてしまった。
 なので、司馬懿は女を認めるとぐっと力を込めて目を閉じる。数秒待って再び見ると、女は必ず消えていた。時折司馬懿がそうするのを見て心配した部下や家族が何かと言うが、司馬懿は女の話はしなかった。適当に誤魔化し、それ以上追及するなと圧迫する。馴れれば女を気にしないことなど楽だった。

 たまに女の夢を見た。濁った大河の前で、鬱蒼とした森の中で、静寂に包まれた軍議の間で――場所は毎回違っているが、展開は台本でもあるかのようにお決まりだった。
 早くここから逃れねば、と焦燥感に襲われていると、急に女が『存在する』。それは後ろに現れ、司馬懿を抱きしめる。女は司馬懿の身体を触り、ここを刺された、ここを蹴られたと耳元で説明する。そして最後には女の説明した通りの位置を、正確に刺される。女は始終声のみで、司馬懿の前に姿は現さない。
 刺されるといっても痛みはなく、強烈な衝撃があるだけだ。刺された直後はすぐに目を覚ますことができた。展開はいつも同じで変化が無かった。それでも夢に居る間は、五感に訴える恐怖、驚愕は現実と変わらず、次の瞬間に何が起こるのか分からなかった。
 夢から覚めると苦しいほどに荒れた呼吸でいつもの夢だと分かる。救いがあるとすれば昼間のうちに闇に見える幻覚とは違い、それが毎晩ではないことだった。多くの晩は夢も見ずに終わるか、意味の分からぬ普通の夢だけだ。そうでなければただでさえ少ない睡眠時間が更に縮んでいたことだろう。
 昼間は視覚で、夜は触覚と聴覚で、司馬懿は女を認識し続けた。

 ある晩、夢の記憶を持ったまま夢を見た。

 ふと気付くと、知らない屋敷の中だった。どこかで虫が鳴いている。屋敷は広く、設計を知らぬ司馬懿は靴を鳴らしながら屋敷を彷徨った。虫が鳴いているということはどこかに庭があるのだろうが、壁と部屋が複雑に重なるだけで、どこへ行っても『外』が見えない。出入り口どころか窓すら見当たらなかった。その癖光源も無いのに部屋は明るく隅々まで見渡せた。
 靴が床を鳴らす音に、どことなく重たい空気。ここに来る直前の記憶は無い。
 ああ、これはいつもの夢だなと司馬懿は察した。それならば今後何が起こるかは推察できる。少し気が軽くなるのを感じながら、この不自然な設計の屋敷を『その時』が来るまで覗いて行くかと、手当たり次第に散策することにした。どうせここは夢の中。家主などいないのだから。

 何度角を曲がり、戸を開けたか。司馬懿は部屋を前にしていた。一見しただけで倉庫だとはっきりと分かるその部屋は、乱雑に家具が積み重なっている。中にぎっしりとがらくたが入っている箱も天井まで重なり、他の部屋とは違い暗く、奥の壁が見えなかった。
 そこで、ついに『それ』が来た。女はぴたりと司馬懿の背に寄り添う。展開が分かっていれば、司馬懿には何も恐れることはなかった。策を全て見透かした戦場のように、落ち着き払って対処することができた。

「毎日飽きもせずご苦労なことだ。昼も夜も……。貴様の目的は何だ」
「貴方は私のここを刺したのよ」

 衣服の上から司馬懿が女を刺した場所を撫でられる。女の柔らかい手は、ゆっくりと横に動く。

「何度も聞いた。それで、恨み言を吐いて貴様は何がしたいのだ。呪殺するならするがよい。親に会いたいのなら向こうにでも故郷にでも行くがよいわ。何の利益もないことを繰り返すのが無駄だと言っている。生きている間に何も成し得ぬ輩は、結局その生を手放してからもろくでもないことをし続けるのだな」
「それだけでも飽き足らず、横に斬りつけて傷を広げて……」
「私が反省し、悔いて貴様に詫びるとでも? そんなことは絶対にせんぞ! 貴様が何をしようと私は後悔などしない。貴様を殺したのは当然のことなのだ」
「貴方は私の頭を蹴りつけたわ」
「本当は目的など何もないのだろう? 私に何も求めず、ただ人を怨みたい一心でやっているのだろう? 赤子が理由の無い不快感に泣き喚くように、自分の気持ちを喚き立てたいだけなのだ、貴様は。なんと無様で、醜悪な……人間としての尊厳も持たず、自分でもわけの分からぬ感情に突き動かされ、翻弄され、自分自身を御することもできぬ……今の貴様は獣以下だ。私が知るどんな無能や凡愚にも劣る。まして人間に噛み付こうなどと思っているのならば笑止!
 私は天下に必要とされ、必要とされることをやっている。貴様があの時あの場所にいたならば、斬られることも必然なのだ。怨むなら自分の不運を怨むがよい。ここで倒れるものか、貴様の日毎の努力など無駄にしてやる、私は必ず野望を実現し、歴史に名を残すぞ。無能な政治家は全て貴様と同じく葬ってやる。貴様に屈することなく天命を全うしてやるのだ。貴様はせいぜい遠くから指を咥えて見ているがよいわ……!」

 どん、といつものように剣が身体を貫いた。息の止まるような衝撃。司馬懿は迷わずその剣の柄を掴んで身体から引き抜いた。焼けるような痛みが身体を蝕むが、夢の中なので死なないと確信があればどこまでも強固になれた。鮮血が剣先から滴り落ち靴を、屋敷の床を濡らす。司馬懿はそのまま、背後の女に剣を突き刺した。血飛沫が舞い、司馬懿の肌白い顔に降りかかった。

*****

 司馬懿は山にいた。普段なら護衛の一人も付けるところを、たった一人で整地されていない不安定な山道を歩いていた。昨日まで長い雨が続いていたからか、空気は重く、雑草が衣の裾を湿らせる。虫が無数に飛んでいた。司馬懿は苛立ちを抑えながら、無言で山を歩いていた。そう距離があるわけでないことを知っていたからだ。
 やがて見定めた場所で獣道に入る。少し踏み込んだ場所の、木立ちがぽっかりと空間を開けた場所。見て分かるほどに、土を掘り返した痕跡があった。

 司馬懿がその手で斬った女を、人を使って埋めた場所だ。

 いまだに例の夢は見る。司馬懿は何度も斬られ、司馬懿も何度か斬った。噴き出た血は司馬懿と女とを合わせ、人ひとりに流れる量以上になっているだろう。人を殺めること、悪事をなさぬ人を大計の為に殺すこと、それと同じで、何度も続ければ初めは衝撃だったことも、次第に馴れて、何も思わなくなるものだ。
 いずれ自分は老けて死ぬだろう。誰だって遅かれ早かれやがて死ぬのだから、自分自身もきっとそうだ。夢の中で何度も死んだ自分は、こちらで死ぬ時もさして驚かず、まるで馴れきったことのように受け入れるのだろうか。殺しや悪事と同じように。無感動に死んでいく自分を想像し、司馬懿は自嘲した。

 司馬懿は茫然と周囲から浮くように目立つ、人ほどの大きさの地面を眺め続けた。この下にあの女はいない。女は視界の端の木の陰から司馬懿の背を見ている。いくつもの視線を、司馬懿は感じていた。女は増えている。これからも増えるだろう。やがて女たちは司馬懿の寝室を埋め尽くし、夜中に訪れるふいの目覚めの寂しさを慰めてくれるはずだ。

「思い通りにはならんぞ」

 司馬懿は背後の無数の目に聞かせるように、明瞭な声で言った。

「私は私の野望を達成する。その前に貴様に折れることはない」

 女たちからの返事は無かった。司馬懿はぐっと目を閉じる。腰に差した剣の飾りが、風に吹かれてちりんと鳴いた。
(170525)

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