仕事で預かっていたコインロッカーの鍵が空を飛んだ。突然人にぶつかられて手から弾き飛ばされたのだ。駄目だ。と思う。幸い橋の上ではないので川はないが、絶対に側溝に落ちるか、自転車とか自動車に引っかかって大変なことになる。それか、もっとひどいことが起こるに違いない。どうにかそれを阻止しようと手を伸ばす。鍵は遠いし、思ったよりも勢いがついていて車道の方へ飛んでいく。コインロッカーの鍵を預かって、指定のコインロッカーを開けて、中身をゴミ箱に捨てる。たったそれだけの仕事の終わりが遠のいていく。

「あっ」

声を上げたのは、鍵がどこにもひっかからず、側溝にも落ちずに、白い手のひらにキャッチされたからだ。鍵を掴んでくれたのは女性だった。大学生か、社会人かいまいち判断がつかない。年齢を感じさせない横顔だ。少しだけ唇を尖らせて今自分が掴んだ鍵を摘まんでくるくると観察している。「ごめんね、ありがとう」七尾が走って駆け寄ると、女性はゆっくりとした動作で七尾と目を合わせた。驚いた。瞳の奥がきらきらと光っている。艶のある闇色の虹彩から目が離せなくなった。「えっと」なんだったか。そうだ。

「鍵を、ありがとう。運動神経がいいんだね。いや、この場合は反射神経、なのかな」

どちらでもいいな、と七尾は自分で言いながら思う。彼女は鍵を七尾の手のひらに乗せて、それからその手のひらを鍵ごと掴んだ。「え?」荒っぽい感じではない。まるで恋人同士がするように手を重ねて、きゅっと握った。これはなにが起こっているのだろう。七尾は静かに微笑む彼女の手を何故か握り返した。感触を確かめるようにゆるく力を入れたり抜いたりもした。柔らかいし、細い。それに白い。手首に華奢なブレスレットをしている。「えっと」仕事のことを忘れそうになる。あいている手で頬をかいた。

「これは、どういうことなんだろう?」
「ごめんなさい。大したことじゃないんです。ただ、教えて貰いたいことがあって引き留めてます」
「なに? あっ、道とかかな? 駅までだったら案内できると思うけど」

彼女はにこりと笑って、手を繋いだまま歩き始めた。手のひらと手のひらの間にはロッカーの鍵がある。これなら飛んで行かなそうだ。いや、そうではない。今おかしなことが起こっている。もしかして彼女は、このロッカーの鍵を狙っているのではないか。しかしそれなら、さっき自分に鍵を返した意味がわからない。
彼女はするりと七尾の隣に立ち、「じゃあ、お願いします」と言った。
彼女からは、とても爽やかな良い匂いがした。



彼女もおかしいが、七尾も普段とは違う。いくら今から駅(正確には駅のコインロッカー)へ行くと言っても、仕事中に案内を自主的に買って出るなんてことは、絶対にしない。それがなぜ、こんなことになってしまったのだろう。七尾は考えながら「君の名前は」と聞いた。彼女はちらりと七尾を見上げて、ふいと正面に視線を戻す。

「なまえと言います」
「なまえさんか。かわいい名前だ」

自分自身の台詞に驚いた。そんなまるでナンパのような。「いや、名前だけじゃなくて、外見もとてもかわいいと思うんだけどね」何を言っている。七尾は自分自身へのツッコミが止まらない。なまえはきょとんと眼を丸くした後に、愛想よく笑って「ありがとうございます」と言った。気持ち悪がられているわけではないのかもしれない。七尾となまえはまだ手を繋いでいる。

「七尾さんっていうのも、かわいい名前だと私は思いますけどね」

「ああそうなんだ、苗字だけだとたまに女性だと思われたり」と照れ笑いで頷きかけてはっとする。七尾はまだ自分から彼女に名前を教えていない。やっぱりこれは自分にとって良いことなんかではないのだと思い知り、呼吸を整える。警戒を強めて隣の女性を見つめる。

「君は一体何者? ひょっとして、俺の仕事の邪魔をしに来た?」
「まあ、それもいいとは思うんですが。ちょっと、聞きたいことが」

なまえ(本名ではない可能性が出てきた)は何度見ても一般女性にしか見えないが、この一瞬で、見えている部分は彼女のほんの一部でしかないのだろうと思わされた。「聞きたいこと?」急に、彼女がどっしりと土に根を張った大木のように見える。七尾は気合を入れ直してなまえを観察するが、なまえが極めて軽い調子で微笑むので、いちいち気が抜けてしまう。

「蜜柑と檸檬について」
「ああ。美味しいよね。よくとんでもないハズレがあるけど。味だけじゃなくて俺の場合、俺が選ぶミカンは百パーセント種が入っているんだ」
「七尾さんを殺そうとは思いませんけど、去り際に鍵をぶん投げるくらいはするべきかなって、今、思いました」

からからと笑うなまえの横を歩きながらどう答えるべきか考える。蜜柑と檸檬。それは間違いなく七尾の同業者だった二人組のことだ。そしてその内一人は七尾が首を折って殺している。誤魔化すか、適当なことを言ってやり過ごすか。時間を稼ぎたくて七尾は困ったように肩をすくめて首を振った。

「俺はその二人と特別仲が良かったわけじゃないし、一緒に仕事をしたこともないから、ほとんどなにも知らないよ」
「失礼しました。正確には、蜜柑と檸檬の最期について、です」

残念ながら、その話なら少しだけできる。七尾はぐっと押し黙って、なまえの意図を少しでも掴んでおこうと質問を投げる。

「君は、蜜柑と檸檬のなんなんだ?」

なまえは質問に質問で返す七尾に嫌悪感を示すでもなく、怒るでもなく「はい」と頷いて話しはじめる。

「友達でした。結構仲良くしてもらってて。だから、最期くらい、どうなったか知りたいなと思ったんです。こんなこと言っても信用してもらえるかわかりませんけど、別に、七尾さんに復讐しようとか、そういうことは考えてません」
「今のところは?」
「そういう言い方も、まあ、できなくはないですけどね」

どうするべきか。七尾はまだ考えている。もし、彼女がとんでもなく腕の立つ業者であったら、自分は生き残ることができるのか。どうする。やられる前にやるべきか。なまえの方を見ると、なまえと目が合った。彼女の笑顔を見るといちいち、思考が停止する。今回のは思考を停止させるだけではなく、抵抗する力までもを奪っていった。

「蜜柑の首を折って殺したのは貴方です?」

泣きそうな笑顔だった。友達の仇を前にした女の顔とは思えず、七尾は若干、申し訳ない気持ちになる。溜息を吐く。観念しよう。彼女は、ある程度の確信を持って自分に接触してきている。あの事件のことはとくに口止めされているわけでもないし、話を聞いて満足してくれるのなら、なんでも話してあげたいと、七尾は思った。

「……そうだね。言っておくけど檸檬の方は俺じゃない。銃で撃たれて死んでたんだ。額を一発ね」
「そうらしいですね。で、七尾さん。じゃあ、七尾さんは、檸檬には触れていないんですか? 殴り合いになったりしませんでした?」
「殴り合い、と言う程派手なやりとりでもなかったけど、顎を一発。そのあとピンピンしてたから、直接の死因ではないよ」
「それだけ?」

なまえは首を傾げた。「それだけか」と聞かれると困ってしまう。質問が抽象的するぎる。七尾はがりがりと頭を掻く。眼鏡が少しずれた。

「君、なにが聞きたいんだ? どっちも俺が犯人であればいいと思ってる?」
「いいえ。私が聞きたいのは本当にあったことです。もうちょっと情報を集めたら全部繋がりそうなんですよ。いや、全部は言いすぎかな。大体のところがわかるような気がするんです」
「それで、僕がどんなことを言ったら君の期待に応えられるのかな」

「ふむ」細い指先で唇を押さえて考え始めた。無防備だ。ひょいと抱えて路地に連れ込んで、気絶させて逃げる、ということもできそうなくらいに、彼女は『ただ思考している』ように見える。ピンク色の唇から指が離れる。唇に触れていた指を立てたまま、前に動かしてぴっと空を差す。

「檸檬の持っていた飲み物になにか混ぜた、とか」

思わず沈黙してしまった。あの時のミネラルウォーターが檸檬のものか蜜柑のものかは定かではなかったが、確かに、睡眠導入剤を混ぜた。七尾の反応を答えとして受け取り、なまえは「ああ、やっぱり」と呟いた。その先は七尾に聞かせる気があったのか独り言だったのか、しかし七尾にはしっかり全て聞こえていた。

「檸檬が無抵抗に額を打ち抜かれるっていうのは、どういう状況なのかなと考えていたんですが。悪いひとの前で意識を失ったとしたら、その死に方は納得できる。かな」

なまえは何度か頷いた。それだけだった。嫌味も恨み言もない。ただ、悲しそうに手首のブレスレットを見た。黄色とオレンジの、涼やかなブレスレットだ。
七尾は改めてなまえを見る。どこをどうみてもただの女の子だが、底が知れない。だんだん怖くなってきた。ひょっとして、彼女がその気になれば自分などは赤子の手をひねるように始末できるのでは、とさえ思える。恐ろしい。けれど。

「君、ひょっとして職業は探偵かい?」
「いいえ。私は一般人です」
「一般人にはとても見えない。大学生にも見えるけど、社会人? 仕事はなにをしてるの?」

怖いもの見たさ、というものなのか、彼女に質問を続けてしまう。どんな情報でもいいから聞きだしたいと思っている自分に気付いた。そんな七尾になまえも気付いたのか、なまえはもう七尾の問いには答えなかった。笑って、するりと七尾から手を離す。七尾の手のひらに鍵を押し付けるようにして離れていった。「あ」

「お話をありがとうございました。お仕事、無事に終わるといいですね」

なまえは軽やかに七尾の前に立って頭を下げた。そして、そのまま去って行こうとする。七尾は咄嗟に彼女の腕を掴んだ。「待って」用事はない。今は仕事中だ。だが、行ってしまう、と認識した瞬間、引き留めずにはいられなかった。なまえの柔らかい視線が再び七尾と交わる。

「なにか? 鍵、すり替えたりとか、そういう陰湿なことはしてませんよ」
「そんなこともできるのか君は。じゃなくて」
「じゃなくて?」

じゃなくて、なんなのか。何故引き留めたのか。なまえは今なにを考えているのか、それがどうにも気になって落ち着かない。出会う前と後で、自分の印象は何か変わったか、そんなことが気がかりでもある。「えっと」なまえは静かに七尾が話はじめるのを待っている。振り返った瞬間は驚いていたが、今はゆるく微笑んでいるだけだ。

「俺とも友達にならないかな、と思って」

何を言っている。友達の仇と友達になんてなってたまるか。「友達、俺が殺しちゃったせいでいなくなって寂しくない? かわりに俺がなろうか?」というようなことを言われて素直に「はいよろしく」と言う人間がどの世界にいるというのか。七尾は頭を抱えたくなった。散々だ、と落ち込んだ。けれど――「はは」なまえは笑っていた。
「あははは」お腹を押さえて心底面白そうに笑う。「ああ、おかしい」不思議だった。なにもかも包み込んで溶かしてしまえそうな無敵の笑顔を浮かべる彼女は、笑いすぎて上気した頬で、笑いすぎてこぼれそうになった涙を指ですくって、改めて七尾に笑いかける。

「いいですね。今度、美味しいものでも食べに行きましょう」
「えっ、いいの?」

ごそごそと鞄の中からボールペンを取り出して、七尾の手のひらに080で始まる番号を書いた。「えっ」「はい、どうぞ」「ええっ?」これは本当に彼女に繋がる番号なのだろうか。まじまじと番号を見つめていると、なまえは七尾の不信を吹き飛ばすように言った。

「たぶん、つらいのは七尾さんですけど、それでもよければ」

なまえは、にこりと笑って去って行った。七尾の手のひらには、コインロッカーの鍵と、なまえの携帯電話の番号。それから、柑橘系の香水のにおいだけが残っている。彼らは何度復活したら気が済むのだろう。


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20210305
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