疲れていた。気分も良くない。体がという訳では無く、なにやら空気ごと重いような。こんな日に、嫌いな奴に会ったとしたら、言い訳くらいは聞いてやるけど、きっと殺してしまうだろう。



日付が変わり、そろそろ寝ようかと言う時に、インターホンが一度、二度と鳴らされた。こんな時間に、と思うけれど、扉の外から染み入る暗い空気を受けて心配になる。一人で部屋にやってきた檸檬は、見るからに元気がないし、コートの下のシャツには、赤いシミがべっとりついていた。

「怪我してますか? 大丈夫?」
「俺が怪我なんかするわけねえだろ」

鬱陶しそうにそう言って「ああ、ならよかっ」私の体に伸し掛るように体重を預けてきた。「重い」慌てて檸檬を支える。檸檬は脱力するばかりで、どんどん重くなる。疲れているらしい。それも相当に。とてもじゃないが抱えて歩くことは出来ないので、どうにか倒れないようにしながら、彼の背中をゆっくり摩る。
「おまえは、すごいよな」ぽつ、と、彼はそれだけ言うとよろよろと自分で立って、しんどそうに目を細めた。「あー」声が掠れている。

「風呂入れてくれ」
「え、ああ、どうぞ入って下さい」
「違えよ」
「え?」
「入れてくれ」
「ええ?」

「ええー……?」檸檬が突飛なのはいつものことだが、今日のは特に大変だ。とりあえずお風呂をご所望のようだから、一度抜いたお湯を張り直さなければ。
ソファまで檸檬を引いて歩いていって「座って待ってて」と言ったのだが、彼は「汚れるだろ」とよくわからない気を使って立ち尽くしていた。ふらふらと揺れる姿は寂しそうで、どんどん断れなくなっていく。



何に苛立っていたんだったか。そうそうあれだ。けどもういいか。あんな奴らのことはさっさと忘れてしまった方がいい。気分が良くて鼻歌が止まらない。

「トーマス君たちはよ、整備場に行ったら機体がおかしくないかチェックして貰えるし、洗車場に行ったらピカピカに磨いて貰えるし、俺はそういうのに憧れてたんだよ。ああ、いいよなあ。俺も風呂に行くだけで自動で全部済まないかしら、とな」
「うん」
「言ってみるもんだな」
「自動じゃないですよ。これ全部手動ですからね」

流石のなまえも、これには若干困っていて(それでもちょっと困る程度なのだから大物だ)、困りながらも「お湯かけますよ」と丁寧に丁寧に俺の頭を洗っていた。思わず丁寧を二度重ねたくなるほど丁寧だった。
「目のやり場に困る」と言うので、下だけ長めのタオルで隠して座り、なまえに体を洗わせている。なまえの格好はジャージとシャツという犬でも洗うような格好だ。色気はないが、嬉しいので割とどうでもいい。「ふふん」と鼻が鳴る。

「心配するなよ。いつか俺も同じことをしてやるからな」
「結構です」
「絶対に、やってやるからな」

なまえから活力というか気力というか、そういうものを奪ってしまったのかしらとも思うが、なまえはどんどんこの状況に慣れてきて、手の動きに迷いが無くなってきている。どうにか焦らせたくて風呂場の隅に大切に置いてある瓶を指さす。

「なあ、あれはどうやって使うんだ?」
「え、使うんですか?」
「なんだよ。駄目なのか?」
「私が私の誕生日に買ったやつなんですけど……」
「次の誕生日にはもっととんでもねえのプレゼントすっから、それで遊ぼうぜ」

「うーん」なまえは引き続き俺に付き合ってくれている。瓶を手に取り蓋を開けると、中に入っていたスプーンで中身をかき混ぜた。中身は塩と、油だろうか。

「使うと全身こういう匂いになりますけど、大丈夫ですか?」

本当に使うんですか、という風では無く、苦手な匂いが常にしてるのは不快ですよね、という気使いだった。「いいよ。お前からも同じ匂いがする時あるじゃねえか」なんで駄目だと思うんだよ。わかってねえなあ。調子があがり続けているのでぺらぺらと喋る。蜜柑ならば、そろそろ「うるさい」と文句を言ってくるところだが、なまえは「ああ、大分元気になりましたね」と安心したように笑った。俺はずっと元気だよ。元気がなかった時なんかあったか? 俺が元気がないと言ったのか? なまえはちょうどいい温度のお湯を俺の頭にぶっかけて「言われてないよ」と笑った。



檸檬は人生初のボディスクラブに感動して、ずっと自分の腕を触っている。折角だからと保湿用のオイルを渡すと「体にツヤがあって、ぴかぴかしてる。これはあれだ。皆にボディを見せびらかしたくなる、ジェームスの気持ちがわかる」としきりに頷いていた。下は履いているが上半身は裸のまま「なあ、ちょっとこっちみろよ」と完全にいつもの調子に戻っている。なによりだ。
時刻は2時を回った。お風呂で遊びすぎたので、檸檬の体が冷えていないか心配だった。本人は元気そうにはしゃいでいるので、水を差すのも申し訳ない。室内の設定温度を少しあげるだけに留めた。

「ほら、触ってみろっての」
「うん。つるつるしてますね」
「そんな指の先だけじゃなくて全身で楽しめよ」
「んー……」

檸檬はひょいと私の体を持ち上げて、ベッドに放り投げた。自分も横になって、胸板に直接私を押さえ付ける。頬が檸檬の胸に触れているし、ボディスクラブの香りが周囲に充満している。
檸檬は私の頭に顔をくっつけて幸せそうに深呼吸をした。部屋は明るいが、そうしてじっとしていると眠たくなってくる。大きくあくびをする。檸檬が「こら」と頬を抓ってきた。

「おい、寝るなよ。せっかく盛りあがってきたんだろ。ツイスターゲームとかしようぜ」
「なんでツイスターですか……」

宥めるように背を叩くと、檸檬はむくれた顔でなまえの背に手を回した。「ツイスターが嫌なら今度デートな」「うん、蜜柑も呼びましょう」「蜜柑は呼ぶなよ」ゆっくりとしたテンポで、ゆっくりとした息遣いで檸檬と話をする。

「うん、おやすみなさい」

瞼が重くて、目が開かなくなってしまった。檸檬にもっと付き合って、色んな話を聞きたいと思っているのに、眠気は瞬く間に体全部に広がって、挨拶をするのがやっとだった。とてもいい匂いもしているし、体もとても温かい。
髪を通り過ぎていくなにかの感触を追いかけていたら、いつの間にか眠ってしまった。



ああやっぱり。なまえから元気を吸い取ってしまったのだ。なまえは落ちるように眠ってしまって、全く起きる気配がない。ゆるりとなまえの体に腕を回して、なまえの匂いを体の中に思い切り吸い込む。蜜柑が見たら羨ましがって暴れるだろう。

「おやすみ。なまえ」

今日は随分疲れた。けれど、風呂に入って丁寧に体を洗ってもらったら元気になった。最高にいい気分だ。こんな時、なまえの睡眠を邪魔するやつが現れたら、問答無用で、殺してしまうに違いない。


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20210320 甘やかすし甘やかされている。
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