しるし渡し/紺炉、紅丸
顔に書いてある。考えていることが表情に現れすぎているという意味ではなく、墨で。右頬に『紅丸』と。なまえはそれを落としに洗面所へ行くところであったらしく、紺炉の顔を見るなり、げっそりとした様子で「いっそ笑って下さい」と言った。へっ、と自嘲気味な笑顔には影しかない。
「とんでもない狼藉ですよ。許されない」
「ど、どうしたんだそりゃ」
「ちょっと屋根の上でうたた寝してたらこの有様です」
「犯人は?」
「さあ。散歩にでも行ったんじゃないですかね」
はーあ、となまえは溜息を吐いて心底嫌そうだ。主張の激しい『紅丸』の文字が滲んでいる。紺炉はやや複雑な気持ちになりながら、その不格好なしるしに触れる。
「拭いてやろうか……?」
「いいんですか? ほんともう……、困ったもんですよ……、こんな悪戯、今時子供だってしないでしょうよ……」
「はは、まあ、若もなまえには甘えてんだろ」
「ですかね。はあ」
年も近いなまえには、第七の大隊長だとか、浅草の破壊王だとか、そういう肩書抜きで話ができているようで、それ自体は悪いことではない。しかし、時々、拗らせすぎてこういうわけのわからない悪戯をしてはなまえを困らせているので困ったものだ。
その度紺炉はなまえが溜息と一緒に吐き出す一つ二つの文句を聞き、そっとその背中を撫でてやる。
それにしても、今回のは本気で嫌そうだ。
少しうたた寝したくらいでこんな目にあっては堪らないだろう、どうにか控えさせる方法は。「よし」
「お前さんもやってみるかい」
「顔に落書きですか? 紅丸にやったら後が面倒だからやりませんよ」
「いや、紅にじゃなくてだな」
「?」
焜炉はとん、と自分の、耳に近い輪郭を指で叩く。
「紺炉さんにですか……?」
なまえは目を見開いてそう言うが、紺炉はこれが案外有効である気がしている。
「たぶんだが、紅にはその方が効くだろ」
「効く……? いや、でも、紺炉さんにそんなこと……」
「俺はお前のせんすを信頼してるからよ。紅みたいに不格好じゃなくて、すたいりっしゅにやってくれや」
「ははあん、紺炉さんさては楽しんでいますね?」
「紅の悔しがる顔が見てえじゃねェか」
「ふむ。そういうわけなら少し考えます」
紅丸は自分の名前をなまえに書いてやってご満悦なのだろうが、そのなまえの名前が自分以外に書かれたらさぞおもしろくないことだろう。
「その前にその顔のやつ、取ってやるよ」
「ああ、そうでした。お願いします」
■
ふらり、と散歩から帰った紅丸を迎えたのは、玄関を掃き掃除している紺炉であった。
それはいつも通りなのだが、その紺炉の左頬に見慣れぬ文字が入っている。ぺたりとシールのような書体で顔に張り付いた文字は『なまえ』と。「よお、若。帰ったのかい」
「……紺炉てめえ、そりゃ一体どういうことだ」
「俺の顔になんかついてるか?」
「なんだその趣味の悪ィのは」
紺炉は、く、と見せつけるように顔を傾ける。
「おう。なまえにな。どうだい。なかなかイカすだろ」
「……なまえはどこ行った?」
「私ならここに」
そして、なまえはひょこりと紺炉のすぐ後ろから顔を出す。その手には、硯と筆が握られている。
「紅丸にも入れてあげようか」
「……」
紅丸はやれともやるなとも言わない。なまえが近付いても嫌がる様子がない。紺炉となまえは一瞬だけぱち、と目を見合わせると、筆に墨を馴染ませる。
「ちょっとじっとしててよ」
ぐっと紅丸に近付いて、なまえはさっと筆を滑らせた。右の頬に一文字、左の頬にも一文字だけ。
ぱた、と墨が滴り床に落ちる。「できた」
ば か
数秒耐えたが、紺炉となまえとはほぼ同時に噴き出した。「あ?」よくないことが起こっているのは確かだ。紅丸の前で爆笑し続けた二人はキレた破壊王に追い回されることになる。
鬼ごっこの幕開けだ。
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20191207:文字書きワーードパレット弐のやつです。
17.シムラクルム 「しるし 幕 触れる」
朧月さんから頂きました。