いつか名前を教えてくれる君へ/リヒト


「ヴィクトル、」

課題と論文とをまとめて一気に片付けようと、僕はいつものようになまえの実家に上がり込み(何故かなまえの家族はこんな僕を好意的に受け止め、彼女の弟などは僕に勉強を教えてくれと強請ったりもする)、パソコンの画面となまえが集めてくれた資料とを交互に見ながら、文字を打ち続けていた。

「ん?」

ごめん、十五分だけ眠る、と机に突っ伏したなまえは、起きるなり、頭を重たそうに持ち上げて言った。

「私、今日死んだ方がいいような気がする」
「怖いこと言うなあ……」

縁起でもない。僕たち無能力者はいつ何時焔ビトになるとも知れないのに、おかしな夢でも見たのだろうか。なまえはぎゅ、と眉を寄せて、自分の体を自分の腕で抱きしめる。
学校の課題と勉強と、それから趣味の調べものとで二徹三徹している時、二人揃ってそろそろ死ぬのでは、とけらけら笑いながらふざけている時とは言葉の温度が違う。

「大丈夫? 体調悪いなら休んだ方がいいよ。課題のことなら僕が上手く、」
「課題は終わってるから大丈夫」
「ええ? はっや……、じゃあ僕の校正手伝ってよ」
「今は隣に住んでるジュンちゃんの勉強用資料作ってるからその後なら」

なまえは自分の指先で自分の目元に触れて言うが、自分の言葉に自分で戸惑っている。釈然としない顔をしたままだ。
少しでも払拭することができればと立ち上がる。

「お茶淹れて来る。なにがいい? 私が衝動買いしたよくわからない味のする紅茶でいい?」
「またおかしなお茶買ったの……? それでいいけど」
「ありがとう。ちょっと待ってて」

部屋から出て行って、階段を下りていく音がする。お母さんと何か話しているのだろうか、話し声も聞こえる気がした。僕だったら、こんなにひょろっとした男がほぼ毎日のように上がり込んで来たら心配になるのだけれど、なまえの家族はなまえと同じように、僕をすんなり受け入れてしまっている。僕もまたそれが心地よくて、言葉に態度に甘えてここに来てしまう。
彼女の弟の勉強を見るのは骨が折れるが、二人で勉強をしている時になまえが持ってきてくれる差し入れは最高に美味しい。

「お待たせ。はい、どうぞ。熱いから気を付けてね」
「ありがとう……、なにこれ……、ショウガと、何この匂い……、柑橘系の匂いな気がするけど、え、本当になに?」
「わからない」
「わからないものを人に出さないで」
「でも、ここにほら、リンゴがあります」
「……」
「これを食べながらだと結構美味しく飲めることがわかったのです」
「へえ、そう……、よかったね……、ちなみにリンゴがないと?」
「ちょっと飲み下すのが難しいくらいには美味しくない」
「ええ……?」
「眠気は飛ぶヨ」

僕はいつもどおりのやり取りにやや安心するのだが、なまえは何かに怯えるように深く息を吐いた。作業の手を止めたついでに、美味しいのか美味しくないのかわからないお茶を置き、なまえをぐっと抱きしめる。
あまりにおとなしくされるがままだから、かぷ、と、キスもお見舞する。すぐに離すと、もう一度唇同士を重ね合わせて、また、すぐに離す。今度はなまえから触れるだけのキスをくれたから、僕はぺろり、となまえの唇を舐めた。
この流れで行為に及ぶこともあるのだけれど、今日はなまえが心配だったから腕の中に閉じ込めるだけ。
静まり返った部屋の真ん中で、なまえはまた、ぽつりと言う。「やっぱり、」

「死んだ方が、いいような気がする」
「コラ、いい加減にしないと怒るよ」

大した力ではないけれど(なまえの方が力は強い)、ぐっと腕に力を入れると、なまえは僕の体に擦り寄りながら苦し気に否定した。

「違う」
「え?」

正確には。

「ヴィクトルに、私、死んでおけばよかったって思うくらいのひどいことをしてしまう気がする」

なまえも僕を抱きしめる腕に力を込めた。
彼女の感性は科学者を志すには豊か過ぎるのだけれど、彼女の勘はよく当たり、また、大変に運も良い。そんな彼女が、そんな気がする、と言う。
僕には、そんなものは気のせいだ、と全てを否定してやれるだけの材料を用意できない。せめてどうにかその苦しさ(寂しさ? それとも痛みだろうか?)を理解したいと会話を続ける。

「……気がする?」
「……気がする」

なまえが当たる気がする、とくじを引けば商品券を当てたりだとか。雨が降る気がする、と降水確率小数点以下の可能性を言い当てたりだとか。危ない気がする、と事故の起こる電車に乗らなかったこともある。
今日なまえが死なないと、僕がひどい目にあう気がする、なまえはここでないどこかを見ながら言った。

「今日死なないと?」
「今日、死なないと」

なまえが死ぬか。僕がひどい目に遭うか。
いいやもちろん、遭わない可能性だってある。しかし、先のことはわからない。どちらの可能性も同じだけあると言えるだろう。
絶対に、とは言えなかった。ただ確実に言えることは。

「……よくわからないけど、僕は何をされても、君が死ぬのは嫌だよ」

僕は死ぬよりひどいことに遭遇するのかもしれないけれど、起こっていないことを怖がっても仕方がない。そんなことよりも、目の前のなまえの恐怖を取り払うのが先決だ。……取り払えるかは、わからないが。

「生きていてよ」

真剣に真剣になまえにそう伝えると、ようやくなまえは安心したようで、うん、と頷いた。

「怖いなら、今日は一緒に寝てあげようか」
「そうして欲しいけど、今日は帰った方がいいよ」
「そう? それは残念。だけど君が言うならそうしようかな」

こんなことがあったのに、僕はいつも通りにこの日、なまえと別れた。いつも通りに「また明日」と言った。なまえは軽く手を上げて「うん」と寂しそうに頷いた。震えを誤魔化すように右手が左の腕を掴んでいた。
なまえに背を向けて歩き出すと、「ヴィクトル」と、改めて名前を呼ばれる。
振り返ってなまえからの言葉を待つ。

「また、明日ね」

その、明日、は訪れないと知らないで、僕は改めて手を振った。



気持ち悪いくらいに爽やかな青い空の日だった。
こんな天気の良い日は大抵外で本でも読んでいるのに、学校のどこにもなまえの姿はない。講義にも来ないし、連絡も付かない。寝ているのかもと思って昼を過ぎると、ようやく嫌な予感がした。
ふと、昨日の彼女の様子が思い出される。「今日死なないと」と彼女は言った。まさかそんな。自ら命を絶つなんてことはないはずだ。どこかで寄り道でもしていて、時間も忘れてなにかをやっているに違いない。
だから、わざわざ見に行く必要はない。
今日じゃなくてもいい。
僕はそう考えているのに、午後からの講義を放り出して学校の外へ出た。
公園とか、図書館とか、彼女の家から遠い場所から順番に彼女の行きそうな場所を一つずつ回って、回って、探したのだけれど、結局、彼女の家まで来てしまった。

「え……?」

キープアウトと張り巡らされ黄色いテープが邪魔だった。
僕はそれを乗り越えて、彼女の家へと急ぐ。
本当に行くのか。
見なければ、知らないままでいられるぞ。
うるさい、と僕は自分の膝を強く叩いて走り出す。
焦げた匂い。
集まった野次馬の一人が僕を止めようとしたが、冗談じゃない。僕は関係者みたいなものだ。家族、みたいなものだ。
ざ、と彼女の家の前に走り込む。
体格の良い、眼帯をした一人の消防隊員が立っていた。
他にはなにもない。
家も、塀も、全部真っ黒になって焼け落ちてしまっている。

「……立ち入り禁止が読めなかったか?」
「そんな、そんなことはどうでもいい……、この家の人は、どうなったんです」

火事?
いいや、ただの火事ではない。
焼け跡は家の中心部から広がっている。放火ではこれはあり得ない。
家の内部から家が焼ける。
火元は。

「……ここに住んでいた家族四名は、全員焔ビトになった為鎮魂した」

焔ビト。

「全員」
「全員だ」

思わず、口元が笑ってしまう。
全員ってなんだ。
死体は……、焔ビトなら……、存在しない。

「あ、」

炎の匂い、あるいは、魂の残滓さえ連れ去るような強い風が吹き抜ける。
ぶわり、と、灰の上を撫でて、彼女だったかもしれない塵が、舞い上がった。

「っ、」

手を伸ばす。
これは、なまえだったかもしれない灰だ。

「――」

ぐ、と手のひらを閉じるけれど、引き寄せて開いてみると何も入っていない。
思い切り手を前に出したせいで、かつて彼女の家だった瓦礫に躓いてべしゃりと倒れる。「ヴィクトル、」と彼女はこんな時、「ヴィクトル、大丈夫? 大事な頭打ってない?」なんて言いながら手を差し出してくれていた。

「ああ、」

視界が滲む。
消防隊員が遠ざかっていく音がする。まだ、確認したいことがある。彼女は、彼女の最期は、一体。「ヴィクトル」と、また呼ばれた気がして顔を上げる。
無様に地面にへばりつく僕の指先に、から、と何かがぶつかった。

「これ、は」

深い青色のペンだった。
「ヴィクトル、よくわかんないけど宝くじ当たったから普段買わないめちゃくちゃ良いもの買いに行こう」などと言い出した彼女と一緒に、色違いで買ったものだ。「普通、僕がそっちの色じゃない?」僕は赤いペンを持っている。「へへへ、意味のない散財は楽しいなあ」などと、神様は何故三徹明けの彼女に大金を与えたもうたのか。面白いから僕も付き合ったので同罪だが。
他に残っているものはなさそうだった。家の骨組みすら残らないくらいに真っ黒に燃えてしまっている。
このペンだけが。こんなところで無事だ。はは。まるで僕みたいだ、と思わず自嘲してしまう。

「またねって、言ったくせに」

僕は大切に、ペンをポケットの中に入れた。



それから何度か彼女の家(だった場所)に通ってみたが、やはり、彼女の遺品で残ったものは、僕が拾ったペンだけだった。
ぼうっとしていたら粛々とみょうじ家の葬式なんかも終わって、学校でも、誰も彼女の話をしなくなった。

「なまえさんは、安らかに、主の下へと」

誰かが言った。そんなことはわからない。わからないことよりも知りたいことがある。
僕は何も悲しくて堪らなくてなまえの家に通っていたわけではない。これは調査だった。焔ビトに死体は残らないから、検死なんかはできない。だが、木材の一部、おかしな焼け方をしている場所を見つけた。採取して調べてみると、どうにも血液が付着していたようなのだ。

「ということは、どういうことだ」

焔ビトから血は出ない。
ならば、まだ人間だった誰かの血ということになる。何者かに襲われた……? いいや、これだけでは、先に焔ビトになった誰かが、まだ人間だった誰かを襲っただけかもしれない。証拠が弱い。
まだ何かないかと一人で掘り起こしていると、刀傷のようなものがついた瓦礫を発見した。刀傷。あの家には何度も行ったがそんなものはないし、刃渡りからして包丁でもない。

「やっぱり、誰かと争ったのか……!?」

誰が、誰と?
流石に血液型までは割り出せない。
いいや、しかし、そこで気になるのはこのペンだ。彼女の使っていたペンだけが、どうして外に転がっていた? 違うな、偶然であるはずがない。たった一本、これだけが外にあって無事だった。誰かが、意図的に外に放り投げたと考えるのが自然だ。
……どうして、外に転がした?

「……なまえ。もしかして、君は」

このペンが書きたかった言葉は、さようなら、か、また会いましょう、か。
正解は、どれだろうか。



手元のペンをくるくると回す。第八特殊消防協会の屋上で、底がないような空を見上げる。あの日みたいな青だと思う。こんなきれいな空の日は決まってなまえは遅刻して来て「空が綺麗だったから」とバカ正直に答えてバカにされていた。僕は彼女のそういう自由で奔放なところが好きだったし、愛していたのだ。
僕も大概自分に正直だが、彼女も僕とはやや違う方向性で自分に正直だった。その悪事に誘われるようになったのは、一体いつからだったか。僕らはずっと二人で、悪い良いことを繰り返しながら自分の求める道を行くのだと信じていた。

「うん。今は消防官なんだ。隊服は似合ってないって言われたから、きっと君も、似合ってないって笑うんだろうね」

時々。
声が聞こえることがある。
足元にある空き缶を踏みそうになった時だとか、間違えて割とヤバめの幻覚剤を珈琲に混ぜそうになった時とか、爆薬を机から落としそうになった時とか。「ヴィクトル、」と僕をやんわりと止める声がする。

「案外楽しいよ。君も居たら、もっと楽しかったんだろうけど」

灰島重工に入るのも、なまえならば楽勝だっただろう。
そうしたら、僕たちはなんて呼ばれていたのかな。君も大概変人だったから、変人コンビとか。いいや、ひょっとしたら、僕は君にプロポーズをしていたかもしれない。一生を一緒に過ごしてもらいたいって、かっこ悪くお願いしたのかも。あの夫婦は大分おかしい、なんて言われたりして。悪くないなあ。
こっそり第八のデータベースから、あの日の火事のことを調べた。
調べてみてもやはり、一家全員が焔ビト化した、とある。四体の焔ビトを鎮魂した、とも。

「ジョーカーってさ、変な知り合いもできたんだ。なんだかなまえとも気が合いそうで……、いや、あんまり仲良くなって欲しくないけど、いつかきっと紹介するから」

それ以上の情報は出てこなかった。
それでも、それ以上の情報がないのなら、ペンを外に放り出す必要はない。焔ビトになって鎮魂されるなら、生きてはいない。生きているかもしれない、なんて可能性を匂わせる必要はない。なまえはきっと、そういうことはしないはずだ。死ぬのなら、はっきり死んだことがわかるように。逆に、生きているのなら、生きているのだと、僕に、気付いてもらえるようにする。
そう考えるとやはり、このペンを投げて、このペンだけを生存させた理由は。
ぎゅ、とペンを握り込む。
生きている、と伝える為に違いない。

「そりゃあ寂しいよ。でも、まあ、いいんだ。生きててくれるなら。――また、会えるなら」

その時は、君があの日言ったように「死んだ方が良かった」くらいの酷い目に遭うのかもしれないけど、それでも。

「会いたいな」

会いたい、君もそう思っていてくれればいいけど。



ぴり、と電流が体に走って、目が覚める。
光が極端に少なくて、空気が、あまり良くない場所だ。

「おっはよーん、起きた? 調子どーお?」

ぴょこ、と白い服の女の子が目の前に躍り出た。
誰だっけ。
記憶を探ろうと自分の心に意識を集中するけれど、驚く程になにも出てこない。ここは、わからない。今までどうしていたか、わからない。彼女はだれか、わからない。――私は?

「……私、は……?」

思い出そうとすると、誰かに名前を呼ばれている気がする。
だが、声が遠い。
聞き取れない。

「自分の名前思い出せない? しまったなちょっと強くしすぎちゃった感じか? うーん、ま、あれだ! じゃあ私が最強にイカしたやつつけてやっかー!? 何がいいかね。かわいさとかっこよさを兼ね備えたやつがいいよな、ちょっちまってな、今――、」

白。
白い布が、目の前で揺れる。

「ヴィクトル」

ヴィクトル、心の中で繰り返すと、涙が出そうになった。「適当に短くしてもいいのに」「かっこいいよ。ヴィクトル」「ええ? 照れるな……」「名前ね」「ああ、名前ね……」誰と、誰だろう。いつの会話だろう。ぜーんぶ、わからない。

「あん?」

女の子は不機嫌そうに私の顔を覗き込むが、私は構わず繰り返す。

「ヴィクトル、で、いい」

たったひとつ浮かんだこれは、きっと、私の一番大切なものに違いない。


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20191204:ここまで読んで頂いてありがとうございます。カッとなってつい。割と気合入れたので……感想とかマシュマロとか頂けたら泣いて喜びます……。何卒……。

 

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