プロローグ『相模屋紺炉』
それは、長年見たかった景色だった。
紅が立派に浅草を引っ張って、その隣で、あいつが細々した作業なんかをサポートする。理想の二人だ。
紅はもうずいぶん前からあいつに惚れていて、あいつは、もっと前から俺を慕っていた。離れすぎた歳だとか、彼女の真っすぐすぎる気持ちだとか、最近だと戦えなくなったことを理由に諦めて貰おうと尽力していた。
何度か女がいたこともあったが、あいつは驚くほど変わりがなくて、俺と、その時俺の隣に居る奴のことまで心配したり世話を焼いたりしていた。……、普段、俺の近くに居られるあいつに八つ当たりをする奴がいたことも知っていた。が、そんな時でも、あいつは「あんまり寂しい思いをさせたら可哀そうですよ」などと俺に言うばかりで、終ぞ、恨み言も我が儘も聞いたことがない。
あいつが直接言わないのをいいことに、俺も楽な方楽な方を選び取って来た。俺だって、あいつを傷付けたい訳じゃない。
……ただ、幸せになってくれたらと思う。
あいつを一番幸せにできるのは、きっと俺のような男ではないのだ。
真っすぐなあいつの、純粋すぎる心を真正面から受け止めてやることを、選べなかった俺にはできない。
だから、この景色は俺が長年望んできたものだ。
我らが大将新門紅丸と、あいつが恋人同士になった。
温かく、甘く、しかし緩み切っている訳ではない。非常事態には、ぴり、と張り詰める。浅草を守る二人の背中はこの上なく大きく頼りになり、町民も「まるで長年連れ添った夫婦のよう」だと感心している。こっそり拝んでいる奴がいることさえ知っている。
あいつにはまだ何も言ってやれていないが、紅には「おめでとう」と言った。紅丸はちらりと俺を見た後「……後悔すんなよ」と応えた。
あいつと、必要最低限の会話と挨拶しかしない日々が続いていた。元々そんな感じではあったけど、今日は暑いとか寒いとか、風が強いとかそうじゃないとか、三丁目のジジイがどうとか、ババアの大福の話や晩飯の相談、そういう些細なものが一切なくなった。俺がそうなるように動いているというのもあったが、あいつも、俺が設定した距離感を保ち続けている。
名前を呼んでやることも、呼ばれることもない。
こんなに近くにいるっていうのに、案外、この程度でも困らないものだ。……あいつが、仕事と私情とをきっちり分けて動いているから、かもしれないが。
少し、背が冷たいような気がした。
いつもそこにあったあたたかいものが、なくなったような感覚。
ふと、後ろを振り返る。
近くに控えていた隊員が「どうかしたんですかい」と首を傾げる。「いいや、なにも」そう、なにもない。なにもないのだ。
じり、と灰病に侵された体の奥が焼け付くように痛む。
少し前まで。
ほんの一週間と少し前まで。
「……ああ、若と姐さんなら、ほら、あそこに」
俺は言われるままに指で示された方を見る。
ここからでは何を話しているのかわからないが、あいつは走り込んで来たヒナタとヒカゲを抱き上げてくるくる回って、華やかな笑顔を浅草中にまき散らしていた。嵐のようにやってきて、そしてそのままかけていく二人に手を振って、そして、あいつは。
紅丸に、振り返る。
優しく柔らかい、女の顔で、紅丸に、微笑みかける。
……。
少し、前まで。
振り返ると、あいつがいつも俺を見ていた。
必ず、『そこ』にはあいつがいて、俺と目が合うと幸せそうににこりと笑う。(俺は)今日は、いいや、最近はずっと、か。(俺は、そんな時、仕方ない奴だなと呆れて)あいつは、紅丸を見ているから、もう、目が合うことはない。(俺も、釣られて笑っていた)(そして、その笑顔が、)
身勝手な話だ。
俺は今、あいつが俺を見ていないことにショックを受けている。
風に靡く短くなった髪を紅丸が愛おしそうに指先で撫でる。(俺は)あいつはくすぐったそうに身をよじって一層笑みを深めた。(俺はあいつの長い髪が、)
ずき、
と、心臓が痛む。
胸糞悪い、体の真ん中を、無遠慮な誰かに掴まれたみたいに痛んだ。
あいつは紅の隣で、この上なく、楽しそうに笑っている。
アノ役ハ、俺ダケノ役ダッタノニ――。
「紺さん? 大丈夫ですか? 体調でも悪いんじゃ」
体調なら、もうずっと良くはない。
引き金を引いたのは自分のくせに。
諦めて、紅とくっつけばいいと思ったくせに。
こんなにあっさり、全部……。(俺は)
狂気にも似た感情が渦巻く。(ああ、俺は)
「は、は」
例えばあの時、婚約したなんて嘘を吐かずに、あいつの告白を受け入れていたなら。
いいや、もっと早くに俺にとってあいつがどういう存在なのか気付いてさえいれば。――この炎の名前は知っている。
想像の中で紅丸の立ち位置が俺と入れ替わる。
俺があいつの頭を撫でると、あいつは素直に嬉しそうに笑う。
俺が名前を呼ぶだけで、俺にだけ特別綺麗な笑顔で笑う。
行こうか、と言えば、はい、とさらりと返事をして、地獄の果てにだって笑顔で付いて来てくれるだろう。
背中を任せても心強いし、隣に居ればあたたくなる。
ぎり、とこの嫉妬心を噛み締める。
俺はどうして、あの場所に、居ないのだろう。
隣に居た隊員に「大丈夫だ、悪いな」と告げて傍から外す。
久しぶりに、名前を呼んでやった。
すぐに気付いて、こちらを見る。
紅に一言なにか言うと、
軽やかな足取りで近寄って来た。
ほんの一週間と少し。
たったそれだけなのに、何か月も会えていなかったような、飢えを感じて唾を飲み込む。
「よう、疲れてねえか」
久しぶりに、仕事と関係のない話を振った。最近第八とのパイプ役も買って出たこいつは一段と忙しそうにしていたのだ。暇をしていると余計なことを考えてしまうからなのだろう。……余計な事、か。
すぐ近くで立ち止まると俺を見上げて、俺を十年以上も想い続けたこいつは笑う。
「あはは、やだな。私はいつでも大丈夫ですよ。ありがとうございます。紺炉さんこそ大丈夫ですか?」
その笑顔は多少苦し気ではあるけれど、以前とあまり変わっていない。
ああ、と胸の痛みがやや治まる。
こいつは。
つまり、まだ、完全に紅丸のものとは……。
「なんだ、年寄扱いか?」
だったらなんだっていうんだ。
とうとう最悪じゃねえか。
俺は今。
まだ、こいつが俺に惚れているとわかって、安心、している。
あの時。
婚約したと言ったあの時のこいつの反応は予想通りで、俺になんの負担も迷惑もかけまいと必死になって笑っていた。
例えば、あの時、嫌だと、好きなんだと縋られていたら、俺はどうしただろう。
いいや、俺はきっと望んでいた。いい加減にしろと怒られる日を、……ずっと昔から好きなんだと言われる日を夢を見ていた。自分には俺しかいないのだと、考えられないのだと、必死になって欲しがってもらえたら。そうしたら、俺は、年の差も今までやってきたことも全部忘れて、こいつを選んでやれたのだろう。
……自分で、突き放したくせに。
自分から、こいつを紅に差し出したくせに。
「なあ」
「はい?」
「この後、二人で飯、行かねェか」
ここ数年では一度もしたことのない誘いだった。あっても紅と三人でか、ヒカヒナも連れて五人でだった。
紅丸は、こいつが隣に帰って来るのを遠くで待っている。
驚いて、目を丸くして、せわしなく瞬きをする、その表情を、俺は、一つも逃さないように見下ろしている。
「……い、あ、いき……あの、どうして、また……」
わかりやすく慌てられて、気分がいい。
「なんとなくだ。妹分に飯奢りてェ気分でよ」
「そう、でしたか」
そうではない。
恋とか愛とか、そういうのではない、と、そんな雰囲気をどうにか前面に押し出しながら軽い調子で言うのだが、こいつはじっと深刻な顔をして考えて。
「……いえ、行くなら、紅と、ヒカヒナも交えて五人で行きましょうよ。二人だと多分、」
クソ、と、俺は心の中で悪態を吐くしかない。
「紅が気にする」
そうだろう。きっと、こいつならそう答えると思っていた。紅と一緒にと決めたなら、例えなにが起ころうとも、もう一度俺を選ぶことはない。紅だってもう離す気はないのだ。二人の、そういう強いところがムカつくくらいに似合いで、壊したくなるほど美しい。
「それもそうか」
俺はなんとかそれだけ言って、紅のところに戻る背中を見送った。
少し前まで、そこに靡いていた髪を撫でる。
直接聞かれたわけじゃない。酒の席話の流れで、女の髪の話になってその場のノリで、いいや、あるいはこいつが聞いているのがわかったから「長い方がいい」と答えた。……やはり、長い方が綺麗だった。
最悪だ。
俺は、今かなり、ショックを受けている。
少し前までなら二つ返事で、これ以上の幸せはないって顔で笑っていたくせに。
俺は本当に、こんなものを、見たかったのか?
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20191116:ここまで読んでいただきありがとうございます。ここまでの話と完結編、番外編いくつか書かせてもらって本にします……!12月15日、名古屋のイベントにて頒布の予定ですが、その後通販もできるようにする予定です。つきましては発行部数を決めたいので是非にアンケートにご協力お願いします。(
部数アンケート)