第七B
恋をしていた。
はじめて見たときからずっと。
最初から、選ばれるはずはないと思っていた。
でも、選ばれたいと思ったこともある。
後ろではなく隣に立てたらと。
笑顔でいてくれると嬉しい、困っているなら助けたい、幸せならばそれでいい。
だから。
笑わせるのは、私じゃなくてもいい。助けるのは、私じゃなくてもいい。幸せにするのは、私じゃなくても。
紺炉さんが誰を好きでも、誰を愛していても、私がやることは変わらない。
一つだって変わらないのだ。
明日からは、ただ、バカみたいに紺炉さんを見つめる事を、やめるだけ。
「風邪ひくだろうが」
ばたばたと、体を打ちつけていた雨粒がぴたりと落ちて来なくなった。
声がした方を見なくても、来てくれたのは紅丸で、差し出されているのは傘だとわかる。
私は、川縁に座り込み、流れが速くなってきた川を見つめたままで言う。
「ああ、ごめんね、紅」
静まり返った浅草に、大粒の雨が降り続く。
打たれることでなんとなく、救われている気がした。
「……帰るぞ」
私は改めて自分の膝を抱きしめる。
「……まだ、やだな」
言うと、紅丸は、私の隣に座って傘を持ってくれている。たぶん、私と隣り合っていない肩は濡れてしまっているだろう。
いつもなら、さっと立ち上がって、ごめんね、なんて言いながら帰るのだけれど、どうしても、どうしても今は立ち上がれない。
押し寄せる雨に、気を使って迎えに来てくれた紅丸の気持ちに構わず吐き出した。
「紅は知ってた? 紺炉さん婚約したんだって」
「……さっき紺炉から聞いた」
だから迎えに来た、と、紅丸は頭を掻いた。
「告白される前にね、言われちゃって。言えないなって。フラれたも同じだし、って、これも逃げてることになるのかな? でももう墓場まで持って……いや、そうだなあ、いつか、もうちょっと気持ちに整理がついたら、好きだった、くらいは言いたいかも。どう思う?」
「いいんじゃねェか、そんくらい言ってやれば」
「だよね。よし、じゃあこれでいこう」
笑っていたくて軽やかにしてみたけれど、空気が全然明るくならない。
はあ、とため息を吐いて余計に重くしてしまう始末だ。
「バカみたいだね」
紅丸が散々言っていた。
バカじゃねェか。と。
その通りだ。
「ホントに、バカ、みたい」
そうだね、なんてわかったように笑っていたけど、わかりたくなくて笑っていただけだ。
後悔してる。
告白して、ちゃんと、フラれたかった。
「あー、もう、……ばか、……ばーか」
膝に顔を埋めて、ばかすぎる、ほんとどうしようと繰り返す。
いつもの自分を取り戻すにはもう少し時間が必要だ。
そして変わっていくのには、もっと長い時間がかかるだろう。
紅丸が、私の名前を呼んで、傘を放り投げる。
また、雨粒が全身に落ちてくる。
流石に体が冷えて来たけれど、熱源は二つ。
紅丸は、自由になった両手で私を抱きしめてくれた。
まるで、今気が付いたみたいに、白々しく、私は言う。
「紅、私が濡れて風邪引くのはいいけど、紅はダメだよ」
ぐ、と抱きしめる手の力が強くなった。
「……なら、帰るぞ」
「先、帰っててよ。そのうち帰るから」
「馬鹿か? 置いていけると思うのか」
「置いて帰って欲しいんだけど」
その内帰る。必ず帰るし、明日には元通りに調整するから、私は小さな子供のように言うのだけれど、紅丸は大きく溜息を吐いて呆れていた。
「お前……、今のお前が紺炉で、俺がお前なら、お前はさっさと帰るのか」
ああ。あはは。上手いこと言うなあ。
紺炉さんが私と同じに苦しんでいたら、私はすかさず隣を狙って、うん。
「……無理だね、チャンスだと思っちゃう」
「だろうよ」
私に紅丸の気持ちがよくわかってしまうのと同じに、紅丸も私の気持ちがわかってしまうのだろう。
雨でぐしゃぐしゃになった紅丸の服の上に、私の頼りない手のひらが乗る。
私達は少し体を離して、じゃれつくように額をぶつけた。
「……どうする? 紅」
こんなに近くで紅丸を見たのははじめてだった。
はじめて会った時はお互いにまだ子供で、背だってそう変わらなかったのに。
紅丸に呼ばれて目を合わせれば、一人の男の人と視線がぶつかる。
新門紅丸が、私を見ている。
「俺を見てりゃあいい。これから先、一生な」
するり、と髪を縛っていた布が解かれて、紐は川に捨てられてしまった。紺炉さんと同じにしていた髪型だ。長い髪が雨に撃たれながら解けていく。短いよりは長い方が、大人っぽく見えると思って伸ばしていた。
「好きだ」
抱きしめてくれる紅丸の背に触れながら、明日について考えた。
できるだけたくさんのことを思考する。ここで寄り掛かってしまう私の弱さや、抱きしめられて嬉しいってただの女の気持ち、紅丸の想いの大きさや、今の言葉の見据えるもの。
紅丸は、私を、私が抱えているものまで丸ごと背負ってくれようとしている。
「……紅丸、大きくなったね」
「何言ってやがんだ」
私が紅丸に対してこんな気持ちになるのなら、紺炉さんにだって、私も一人の女なのだとアピールしたら、届いたりしたのかも。ふふ、と思わず笑ってしまう。今はもう、届かない人のことだ。口に入った水がしょっぱい。
紅丸は私の頬の水滴を拭って真剣な顔をして言う。
「お前は、綺麗になった」
……驚いた。
紅丸がそんなことを私に言うなんて。
口を開けばバカだの髪型のセンスが最悪だなどと言っていたくせに。
「……ふ、」
今となっては、そんな文句もかわいく思えるけど、しかし、綺麗になった、とは。
「ふふ、本当に思ってる? 今まで一度もそんなこと言わなかったのに」
「気を使ってやってたんだ」
「あは、そうなんだ」
浅草の破壊王に気を使わせられるとは、私もなかなか大物かもしれない。あまりからかうのも良くはないと思いはするが、どうしても気になって聞いてしまった。
「もしかして、まだいろいろある? 言わないでおいてくれたこと」
「安心しろ。今日から全部教えてやる」
「わあ。楽しみ」
自分の笑い声が聞こえた。
明日の私を、もう一度想像する。
「お前は言いたいことねェのか」
「言いたいことっていうのも難しいね」
「なんでも聞いてやる」
「じゃあ、まず。……紅、大丈夫? 無理してない?」
「なんだそりゃ」
「いきなり優しすぎない?」
「俺はいつでもこんなもんだっただろうが」
「……そう、だったかな」
「気付かなかっただけだろ」
「かなあ」
なんとかなる、そんな気持ちになってきた。
紅丸は強いなあ、などと言ったが、私もちゃんと強かだ。なんて、これは、紅丸ありきの強さと勢いなのだけれど。
「紅、」
「なんだ」
「これは昨日の返事なんだけどね」
「ああ」
明日の私は。
「忘れさせて欲しい」
貴方の隣で、貴方を見ている。
新しい私に、はやく、会いたい。