第七A


 途端、風の匂いがわからなくなった。
 目の前の男から発せられた言葉を受け止めるので精いっぱいだ。私が黙っていると、紅丸がやや苦し気に眉間に皺を寄せた。――冗談じゃ、ないんだ。
「いつ、から……?」
「出会った瞬間から、だろうな」
 さらり、と振りきれた潔さで教えてくれた。
「そ、それ、そうとう昔だけど。十年以上前になる、よ」
 紅丸の答えは明確で、迷いは一切見つからなかった。
 長い付き合いであるからこそ、これは嘘ではないとわかる。同時に、長い付き合いだったのに、ずっとその気持ちに気付きもしなかったのだ。自分の恋と紅丸の恋とを重ねて胸が痛む。
 こんな思いを、紅丸にもさせていたのか。
「俺なら」
 普段は触れることのない、私の頬に紅丸の指先が触れる。浅草の町はこの破壊王の味方なのだろう、彼の背を押すように、空気が振動する。
「浅草ごと、お前を見ててやる」
 息が止まる。
「紺炉みてェに、お前の気持ちを見て見ぬふりはしねェよ。退屈もさせねェ。紺炉が忘れられねェってんならそれでいい。俺は、そんなお前をずっと好いてた」
 触れる指先が燃えているみたいに熱い。
「俺にしとけ」
 さり、と紅丸の指の腹が私の頬をなぞって、真っすぐこちらを見据えている。
 貴方が好き、も、自分にしておけ、も、私が、紺炉さんに言えていない言葉だ。言うつもりもない、と強がって仕舞い込んでいた言葉。
 改めて、新門紅丸という男の強さを思い知らされた。
 そして、はじめて考える。
 新門紅丸と、私の関係性が変わる可能性について。
 可能性もなにも、私がここで「はい」と言えばそうなる。紅丸と私とは恋人同士になるのだ。「いいえ」と言えばそうはならないが、もう、知らなかった私には戻れない。紅丸はもう踏み出していて、私だけが二の足を踏んで進むことを拒んでいる。
「……返事は」
 後で良い、と言ってくれるのかと期待したが、言葉は続かない。ただの催促だった。
「返事、は……」
 返事なんて、できるはずがない。
 「はい」も「いいえ」も、言えるはずがない。
 知らない人間に告白されるのとは訳が違う。
 たぶん、私は、世界で一番今の紅丸の気持ちがわかる。
「紅、」
 「ごめん」も「ありがとう」も、言えない。
 私はその場ですっと立ち上がる。
「半日……、いや、一日でいいから、時間……くれる? 明日の夜には、返事、するから」
「一日……? 今更一日ぐれェ構いやしねェが。なにする気だ?」
「……」
 なにをするか。
 そんなものは決まっている。
「……、紅、が、決着付けようとしてるのに、私がそうしないのは、筋が通らないでしょう。元々、いろいろ言い訳並べても、このままじゃいけない気は、してた。ありがと」
 未練とか後悔とか、祈りとか願いとか、最善とか最良とか、……恋とか愛とか。全部を抱えて、私も前に進もうとしなければ。
 紅丸の気持ちに応えるには、まず、紅丸と同じ土俵に立たなければ。
「…………、俺は」
 紅丸は、はじめて見る顔で笑っていた。
「お前のそういうところが好きだ」 
 ……、彼は。
 もし、万が一、私が紺炉さんに告白して、付き合うことになったとしても、怒ることはないのだろう。
 私も同じように紺炉さんが大好きだから、よく、わかる。

 場所とかタイミングとか、そんなものを細かく考えている時間はない。と言うより、ここで立ち止まったらまたいつになるかわからない。
 勢いのまま伝えてしまう方がいい。
 できることなら。いいや、わからない。思い切り突き放して欲しいような気も、優しく抱きしめて欲しいような気もする。でも、望みは薄い。紺炉さんは私の気持ちにきっと気付いているし、わざわざ遠回しに諦めさせようともしていた。私も紺炉さんも、正面からぶつからなかっただけ。
 私は、壁に寄り掛かって何度も繰り返し深呼吸をする。
 七つ数えて息を吸い込み、
 同じく七つで息を吐き出す。
 何度目かで、がらり、と詰所の戸が開けられた。
「紺炉さん。おかえりなさい」
 いつも通りに笑えたのは、深呼吸で心を落ち着けていたからだ。
 けれど、距離が近くなると自信がない。
 自分の心臓の音がうるさくて、固めて来た意思が聞き取り辛くなってしまう。
「おう。ただいま。変わりねえかい」
「はい。異常なし……なんですけど、」
 好きだ、と言った紅丸の顔を思い出す。
 覚悟を決めろよ、私。
「今からちょっとだけ時間いいですか? お話したいことがあるんです」
「ああ。構わねえよ。丁度俺も、お前に言っとかなきゃいけねェことがあってよ」
「なら……、紺炉さんの用事から教えてください。私は後の方がいいです」
 答えによってはその後の会話なんて入ってこないだろうから。
 しかしダメだな、ちょっと先延ばしになって、安心している自分が居る。先の方がよかっただろうか。咄嗟に逃げてしまうなんて。
「俺、な」
「はい」
 ぞわ、となんだか、嫌な予感がした。

「婚約したんだ」

 折角整えていた息が止まった。
 婚約。
 こんやく?
 誰が? いや、俺な、と言ったんだから紺炉さんがだ。
 婚約っていうのは、どういう意味だった?
 くだらないこと考えるな、結婚の約束をするってこと、いや、この場合、したってことだ。
「え、」
 体を支える二本の足ががらがらと崩れそうになったが、どうにか、ぐ、と姿勢を保つ。
 私は紺炉さんの顔を見ているが、どんな表情なのか、判断がつかない。
「ちょっと前から、な、そういう話になっててよ。若ももう心配なさそうだし、そろそろ話ししとかねェとと思ってな」
「そ、う、ですか」
 笑っている、気がする。
 当然だ、婚約、は、めでたいことだ。
 私は紺炉さんに気付かれないように、そっと両手を膝に乗せる、
 まだ、崩れるな。
「どうした? 吃驚しすぎて声もでねェか?」
「そ、」
 崩れるな。
 まだ、泣くな。
「そりゃもう! 吃驚ですよ、大ニュースじゃないですか! おめでとうございます!」
「おう。祝ってくれるかい」
「もちろんですよ。もしかしたら、式の時泣いちゃうかもしれません!」
「浅草の姐御の涙たァ、こりゃ貴重だな」

「それで、お前の方の用事ってのは?」
「ああ、私? 私の方は、私、今からちょっと外に出るので、留守をよろしくお願いしますって話だけですよ」
「そうかい。気を付けてな」

「はい。ありがとうございます!」
「遅くなるなよ、夜には雨も降りそうだ」
「そうですか、じゃあ、降り出す前には」
「なるべく早めにな」
「今日、なにか、特別な仕事がありしたっけ」
「いいや。復興作業以外は特になにもねェ、が」

「お前がいないと、紅が心配する」

 紅丸。が。
 ……ああ、紺炉さんは、彼の気持ちも、知っていたのか。


 

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