第七@
浅草は本日も快晴。
不安なことは人それぞれあるのだろうが、皆、懸命に前を向いて生きている。白装束の襲来により大きな爪痕の残った浅草の町だけれど、昨日より今日が明るいのは、その浅草の一番上に立つ男、新門紅丸の心境に変化があったからだ。
たぶん、あれは、あるいは、これは? 紺炉さんが心の底から見たいと思ってたものだ。紺炉さんもどこか上機嫌で、第七特殊消防隊は今までにないくらい一つになっていると感じた。
私も頑張らなければ、と日課の早朝走り込み兼見回りから帰ると、詰所の前で紅丸が仁王立ちをして私を待っていた。
「おはよ」
「ああ……」
どこか深刻そうに言う紅丸の次の言葉を待つ間、私はタオルで汗を拭った。
「ちょっと付き合え」
「ん? いいよ。どこに?」
私の問いに、紅丸はやや考えて、詰所の屋根の上を指さした。
ああ、何か、他の人には聞かれたくない話なのかもしれない。「わかった。着替えてくるから先登ってて」お菓子でも持って行った方がいいだろうか。少し考えたが、紅丸の表情が真剣だったから、そういうのはやめにした。
屋根に登ると、紅丸は木くずの匂いのする風に吹かれていた。
さらさらと黒い髪が揺れて、私に気付くとちらりとこちらを見た。
私も隣に腰を下ろす。こちらが風下だったようだ。風の香りに紅丸の匂いが混ざる。詰所はいつになく静かだ。
鉄を打つ音、金槌の音、復興に向かう明るい音で町は賑わっている。昼からは私も手伝いに行く予定だ。おそらく、紅丸もそうだと思うのだけれど。
私はふと、今日は紺炉さんの姿を見ていないことに気が付いた。
「ところで、今日は紺炉さんどうしたの?」
紅丸はいつも私が紺炉さんの名前を出すと、呆れたように溜息を吐く。
「まァた紺炉か」
「どっか出かけてる?」
「ああ。最近多いな。また女じゃねェか」
……、そう、かもしれない。
何度となく見て来た、紺炉さんと私ではない女の人が一緒にいる姿。
思い出すだけで心臓が痛むのだけれど、紺炉さんは特定の一人とは長く続かず、定期的に違うひとにかわるのだった。
紅丸は私が紺炉さんを特別慕っていることを知っていてそう言うのだから、意地悪だ。いいや、もしかしたら、優しさ、なのかもしれないけど。
「……、なんていうか、紺炉さんが、傷付かなきゃいいけど」
あと、相手の女の子、いや、女の人、なのかな。どっちも、傷付かないならいいんだけど。
このやりとりはよくするのだけれど、紅丸はいつも「はッ」と漂い始める辛気臭さを吹き飛ばすように笑う。
「てめえはいいってか」
「私はいいよ」
「……」
はあ、と紅丸はまた溜息を吐いた。
呆れているし、心配もしてくれているのだろう。付き合いも長いし、それなりにお互いのことはわかっている。ありがとう、と言おうと口を開くと、遮るように下の通りから声がかかる。
「お、紅ちゃん! とうとう姐さんと付き合うことになったのか!」
「ホントか紅丸! こりゃ宴会だな!」
二人で歩いてたり、二人で話をしていたりすると昔からかけられる言葉だ。いい加減飽きないのだろうかと思うが、すぐに、それはお互い様かと気付いて笑ってしまう。
「別に付き合ってないよ」
「なんだそうなのか? 紅」
「こいつァ、紺炉しか目に入ってねェからな」
「コラ、やめなさいそういうのは。良くも悪くも噂が回るの早いんだから。紺炉さんに迷惑がかったらどうしてくれるの」
「バカかお前」
わからない。馬鹿はその通りだけれど、紺炉さんの迷惑になりたくないのは本当だ。紅丸と言い合っていると、声をかけて来た二人は笑いながら歩いて行ってしまった。
下らない、実際何の益にもならない言い争いはやめにして、一度呼吸を整えてから空を見上げる。
きれいな空だ。そして今浅草は平和なのだから、何の文句もない。
「お前」
「ん?」
「まだ、紺炉を諦めないつもりか」
「……真面目な話?」
「真面目な話だ」
したかったのはこの話だろうか。
そう聞かれたのはこれがはじめてではないし、その度にしっかり答えている。
昨日今日は浅草の節目の日になる。これを機に、改めてまた考えてみるか、と数秒じっと思考する。紅丸は大人しく待っていてくれた。
「正確には、諦める努力をする気がない、になるのかな」
例えば、別の熱中できるものを探すとか。
例えば、他の誰かと恋に落ちるとか。
例えば、物理的に距離を離す為に第七を出る、だとか。
やれることはいろいろある。けど、あまりそういうことをしようという気にならない。諦めたいとか諦めたくないとか、そういう感情とは別に、私はこのまま紺炉さんを好きでいたいと思っているのかもしれない。
ころころと隣に居る人が変わるあの人に、せめて、決まった人ができるまで、心の底から幸せを祈っていたいと、思っているのかも。
……いいや、きっとそう思っている。
これは叶わない恋心ではあるが、それ以上に、相模屋紺炉が大切だ。
「最終的には、別に私じゃなくても、幸せになってくれさえすれば、いい」
矛盾しているかもしれない。
隣に立ちたいと思わないわけじゃない。
隣に立つ私を想像すると、とてもこわくて、とても熱くなる。
紅丸はがりがりと頭を掻いて私に言う。
「その言い訳、もう何年続けてんだ?」
私じゃなくてもいい、は、私がやる自信がない、とそう言いかえることができる。
ふふ、と笑う。紅丸の方が、私のことをよくわかっているのかもしれないな。
「言い訳に聞こえる?」
「あァ。自分から行く勇気もねェ奴のみみっちい言い分に聞こえる」
きっとその通り。
私はあの人の、数居る女の子の、その内の一人にはなりたくなくて、でも、特別なたった一人になれる自信もないから、ずっと妹分でいる。
「参ったね」
膝を抱えると、その膝に、ぽん、と紅丸の手が触れる。
「俺はやめるぜ」
独特な虹彩を放つ目が、私を見据えていた。
「やめるって?」
あれ。この目。
「その阿呆みたいな言い訳はもう使わねえ」
紅丸の中の熱と、私の中で燻っている熱とが共鳴した。炎と炎が近付き、ゆら、と一つになりかける。
「俺は、お前が好きだ」