幸運ではない/大黒


可哀想に、と言う空気だけが流れている。
空気だけなのは、自分へ矛先が向かうのが恐ろしいからだろう。なまえは、仕方ないかとため息をついた。
大黒のデスクの前に立たされて、大黒にじっと見つめられる。「今のは」大黒がなにか閃いたというような神妙な顔をする。

「仕方がないから今日も付き合ってやるか、というため息だな?」
「仕方ない、までは合ってます。それ以降は」
「そうか当たりか! いや、君についてわからないことも、ほとんど無くなってきたな?」

なまえはもう一度ため息をつく。今度のは何もかもに呆れ返るため息だ。実際大黒はなまえをよく観察していて、なまえの感情を言い当てることもあるけれど、それは別に、なまえにとって有難いことではないのである。
むしろ思い切り探られている不快感を毎回感じる。それを分かってやっていそうなところが不気味である。彼が毎日のように口にする「君と仲良くなりたいからな」という目的に反している。
折角なまえのことがわかるようになっても、知識が間違って使われたら逆効果だ。

「いやなに、そろそろデートの一回くらい許されはしないかと」
「嫌ですよ」
「だろうな。君がそう答えることは予測していた。おおむね予想だ通りだ。それで? 今夜の予定は?」
「定時で家に帰ります」
「よかった。俺も今日は仕事が早く片付きそうでな」
「……」

面倒くさすぎて立ち去ろうとすると、がしりと手首を掴まれる。机の上に身を乗り出して、潰れるようになまえを掴む姿には必死さを感じない訳でもない。が、全体としての方向が間違っている気がしてならず、いまいち確信が持てない。
大黒は話すスピードをあげて言う。

「無視はよくないな」
「無視したくなるような言動はいいんですか」
「今日は機嫌が良くないな。大丈夫か? あとで栄養のあるものでも差し入れよう」
「今日は一層しつこいですね」
「ああ。いつも誘うのはいいんだが心のどこかで君は来ないだろうと決めつけているのがいけないような気がしてな。約束できた体でレストランの予約をしているんだよ」
「仕事に戻ります」
「いいや、今日は俺も引けないな。何かとんでもない新情報でも聞かない限り君を解放してやる訳にはいかない」
「なんですかそれ」
「現在の君を観察しているだけでは得られない情報だ。一つ例をあげるとするならば」

ろくなことを言わないだろう。経験からそう察して聞く前から眉間に皺を寄せていると、体全体に冷たい衝撃があった。「あっ」悲鳴のような声が後ろで聞こえた。振り返った時には紙から水が滴っていて、大きな花瓶がごとりと音を立てて落ちてきた。目の前には、悲鳴をあげた女性社員だ。口元を抑えて青い顔をしている。
なまえは「ああいや」と首を振る。「私は大丈夫」ちらりと大黒を確認するが、被害は自分までのようだ。水を被ったのはなまえだけ。

「乾かして来ます」

ドライヤーとか、乾燥機があればいいが。なまえはその場から立ち去ろうとしたけれど、大黒に腕を掴まれていて動けない。「風邪を引くので」離して欲しい、そう言うつもりで振り返ると、血走った目を見開いた大黒と目が合った。思わず怯む。大黒は言った。

「下着のサイズが合ってないんじゃないか」

「プレゼントしてもいいか」と、視線がちらちら胸元に向く。
彼にとってはとんでもない新情報だったらしく、レストランは大人しくキャンセルしたらしかった。


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20211017

 

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