過去と現在の話


「絶対に迎えに行くから」

懐かしい声が聞こえたと思った瞬間、意識が覚醒した。勢いよく起き上がったせいでいつもより乱れた髪を後ろに流しながら呼吸を整える。昔の夢だ。久しぶりに見た。
思い切りベッドを揺らしてしまったので、隣で寝ていた部長さんも起きてしまったようである。「今日は一層早起きだな」とっくに彼もきちんと起きている。だからこれはどさくさにまぎれて、というやつだ。私の腰にゆるりと巻き付いて、私にバレないように深く息を吸い込んだ。
私は部長さんの手をはずして、ベッドに置くと、一人でベッドから抜け出した。私が起き出した気配を察知すると、ぶちょーが自分の寝床から起きて来る。フローリングの廊下を軽快に走り、ぶんぶん尻尾を振りながら私の体の周りをぐるぐると回った。少し落ち着いて貰おうと、しゃがみ込んで高さを合わせ、抱きしめて頭から背にかけてわしわしと撫でた。「くっ」毎朝よく飽きないなと思うが、これは部長さんの悔しがる声だ。
ぶちょーに導かれるように一日がはじまる。自分の身支度を整えると、散歩に出かける。一つ一つ家事をこなして、我ながらなかなかちゃんと『妻』ができているなと思う。結婚生活というのは、もっと窮屈なものだと信じて疑わなかったが、部長さんは思った以上に面白い人だ。

「今日は、アルバイトがあるんだったな」
「はい。夕方まで」
「働き過ぎじゃないのか? 生活費だって君が出す必要はないんだぞ」
「部長さんにはどうにもいろいろ借りている、という気がして、あまり使う気になれないんですよ」
「そんなことを言ったら俺は君に一体どれだけのものを貰っているか。とにかく、俺の貯金を使い切るくらいの贅沢をしたらいいんだ。君は」
「できませんよ」

本当にそうしたらどうするのだろう。という興味はあるが、私のせいで破産に追い込まれたとしても笑っていそうで、そんなことがあったら私はとうとうどうしたらいいのかわからなくなってしまう。『君への愛を思い知ったか』という顔で笑われると、いつも、どうしていいのかわからない。たぶん私はそうされるのが嬉しいし、喜んでいると思うので、部長さんに触れたり、頑張って言葉を尽くしてみたりするが、正解かどうかはわかっていない。
ベーコンエッグを上品に口に運びながら、部長さんは寂しそうに笑っている。
なにか、強請ってみせれば喜んでくれるかもしれないが、そんなことをしなくても色々プレゼントしてくれようとするので、やはり気が引けた。

「もし、君が金のことを言っているんだとしたら、はやく忘れて欲しいんだが」

金のこと。私もおそらく、部長さんと同じような顔で笑う。「忘れて欲しい」は大分無茶だ。この人は『お金』の力を振りかざして私に結婚の話をしたのだから、どう足掻いても忘れることはできない。

「例えば、子供ができたりしたとして、なんで結婚したのか、という話は回避できないと思うんですよ。だから」

忘れるのは無理。そう続けるはずだったが、部長さんが胸を押さえて椅子から転げ落ちてるのを見てしまい、これにツッコミを入れる方が先だと判断する。

「どうしたんですか」

息も絶え絶えに「こどもが、できたら」と言っているのが聞こえた。今にも死にそうだ。「こどもができたら」一体この人の頭の中で今、何が起こっているのだろう。噛み締めるようにそう繰り返す部長さんを、ぶちょーが舐めた。順調に仲良くなっているようでなによりだ。

「私、そろそろ出ますね」
「待て……いってきますのキス……」
「今ぶちょーがしてましたよ」
「君からのやつをくれ。なければ店まで取りに行くぞ」
「洒落にならない脅し文句はやめてください」
「それさえあれば俺は大人しく待っている。この犬と一緒にな」

私は床に転がる部長さんの額、左右に分けた前髪の上にキスをした。「じゃあ、いってきます」「いってらっしゃい。くれぐれもきをつけてくれ、特に男に……」この大袈裟なリアクションは何を意味しているのだろう。はじめは意味がわからなくて困惑するばかりだったが、どうやら、嬉しいとか楽しいとか、幸せだとか、そういう気持ちが極まるとこの人はこうなってしまうらしい。
私は荷物を持って逃げるように店に出かけた。変な人だ。本当に。



体を動かすのは好きだ。働いていれば余計なことは考えずに済むし、ここはやるべきことが明確で助かる。喫茶店の店員としての私の仕事は、お客さんが少しでも楽しい気持ちになれるように頑張ることだ。仕事だから、なんだか店長が暴走したとしか思えないようなイベントも実行する。ちょっとやばいな、と思うお客さんも邪険にはしない。仕事だからだ。
からんからんと店のベルの音に、条件反射で顔を上げる。「いらっしゃいませ」は流れるように口から出るし、意識しなくても笑顔が出来上がっている。

「――」

私と目を合わせるなり、その人はぴたりと固まった。明らかに不自然だ。私から目を逸らそうとしない。「どうかされましたか」言ってからハッとする。「絶対に」今朝、夢で聞いた声が突然再生された。喫茶店の出入り口はそれなりに大きいはずだが、扉も、いや、店自体が小さく見える。そんな風に見えるのはただ単純に身長があるから、というだけではなさそうだ。黒いコートのせいだろうか。長い髪のせいだろうか。あるいは、布で黒く隠された左目のせい――。

「なまえ」

彼は私の名前を、独り言のように呟いた。「絶対に迎えに」懐かしいような。怖いような。嬉しいような。私は、どんな気持ちになればいいのか。わからないことが一つ減っても、納得するより先に、こうやって、また、増えて。

「遅くなって悪かった」

知らない声だが、知った人だ。焦げたような低音が、私の中に重くのしかかった。


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20210529:礼さんに『大黒部長夫婦シリーズ』リクエスト頂きました!ありがとうございました!勢い余ってかねてより構想があった過去現在編をうっかりはじめました。

 

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