俺を不幸にしてみせろ/大黒


チャンスが降って来た。そう思った。



書類を確認する間、目の前で女性社員を待たせていた。彼女は上司の前に立っていると言うのに、今にも欠伸をしそうなくらいに眠そうだ。窓の方を見て、今まさに「こんな日に仕事なんてしている場合ではない」と思っているに違いない。
どんな仕事もそつなくこなすがイマイチ安定感がない。唐突に、ビックリするくらい抜けていることがあるし、信じられないくらい適当な仕事をすることもある。かと思えば、大黒でさえ舌を巻く仕事ぶりを発揮する時もあった。
彼女はついに欠伸をした。

「みょうじ。見てたぞ」
「違います。眠いだけです」
「何も違わないな」

ハッとこちらを見てぶんぶんと首を振った。否定はするが欠伸を見られたことについては恥ずかしくもなんともないようだ。最後の一枚に目を通して書類の角を揃える。みょうじはまた外を見ていた。窓から外を見る猫のようである。窓を横切った烏を目で追うところなども猫そっくりである。

「よし。戻っていいぞ」
「え? 帰っていいって言いましたか?」
「言っていないからちゃんと仕事をしてくれ」
「してますよ。割と」
「そうだな。割とな」

新入社員の時から彼女は誰に対してもこの調子で、どうにも憎み切れないところがある。というのが周囲からの変わらない評価だ。もう少し気合を入れて頑張ってくれればもっとやれそうなのに、とも言われている。実際にその通りなのだろうが、大黒としては、大いにのびのびやってくれればいい、と思っている。

「気持ちはわかる。今日は天気がいいからな」
「はい。働いてる場合じゃないですよ。日中は短いんですから」
「なら君は、今帰っていいと言ったら何をするんだ」
「特にやることはないですねえ」

全てを洗い流すような、涼やかな顔でへらりと笑う。この笑顔を正面から見ていると腹やら顔やらが熱くなってどうしようもなくなるので、みょうじに倣って外を見る。みょうじは呑気に体を伸ばして「帰りたいなあ」とぼやいていた。

「やることはないんだろう? それなら仕事をしていたほうが有意義じゃないか?」
「部長、残業が減って収入が倍になる魔法ってないですか」

今日は相当にやる気の出ない日らしい。書類に問題はなかったが、完成がやや遅かった。それに、仕事以外の話をはじめるのもやる気がない時の彼女の行動パターンの一つだ。どれだけサボっても後々ちゃんと取り返すので文句はないが、周りの人間はよく呆れている。「収入が倍、か」大黒はにこりと満面の笑みを作ってみせた。

「俺の恋人になるならその魔法をかけてやってもいいぞ」

冗談のつもりだった。こんなもの、冗談以外の何ものでもない。だと言うのに、みょうじはぽかんと口を開けて大黒を見つめていた。そして、とんでもない儲け話を聞いた、という風に詰め寄って来る。近い。心臓がせり上がってくるように感じた。

「え、本当に……? 部長の彼女ってそんなにお得なんですか」

みょうじのことは随分前から観察に観察を重ねているのでよく知っている。灰島重工全社員が束でかかって来ようがなまえみょうじについて知っていることは自分が一番多い。一番だ。だから、大黒には今、彼女が真面目に『収入を倍にしてもらって大黒の恋人になる道』について考えていることがよくわかる。みょうじが一番好きなものはお金だ。このチャンスを逃してはいけない。

「お得だ。他の男に言い寄られることもなくなるし、おそらく食費も浮くだろうな」
「それはあれですか。デート代を部長が全部持ってくれるってことですか?」
「当然だろう。俺を誰だと思っている? 場合によっては服飾代も浮くな」
「その上プレゼントがある……?」

ノリが完全に予想外のサービスがあると知って喜ぶ客のそれだ。構うことはない。ここでたたみかけなければ二度とこんなチャンスはないかもしれない。

「悪くないだろう?」
「最高ですね」
「よし、契約成立だな」

「えっ、本気だったんですか」と言われる可能性もあると考えていたのだが、自分のみょうじへの理解の浅さを見せつけられた。みょうじはそんなことは言わなかった。目をきらきら輝かせている。かなり眩しい。

「今日からですか? 今日から残業なし?」
「なしとは言ってないが。まあ今日はいいだろう」
「やったー!」

感情が一周して不安になってきた。
わかっているか。その条件を飲むと言うことは俺と恋人になるということだし、金を出している以上絶対にプレゼントを受け取ってもらうし、デートを断られるようならこの条件を盾に駄々を捏ねるということだぞ。「わーい!」みょうじは今まで見たことがないくらいに喜んでいる。そんな笑顔は会社でははじめて見た。まずい。手が震えている。今まで書いてきたラブレターの出番はなくなったし、彼女に告白する時の為にリストアップした店は別の用途を考えなければならなくなった。本当にいいのか。そう言いそうになるのを堪える。「いいのか」なんて聞いて「やっぱりやめます」なんて言われたら困る。契約書を用意して、来月あたりに本当に収入を倍にしてやったら、いくら彼女とは言え簡単には「やっぱりやめます」とは言えないはずだ。よし、本格的に動くのは来月からだ。いや、だがしかし、彼女は本当に俺と付き合ってくれるのだろうか。

「早速部長と援助交際することになった話してきていいですか」
「人に言うなら援助の部分は隠してくれ」
「はーい」

なまえみょうじと大黒部長が付き合い始めたらしい、という話は瞬く間に広がった。
待て。心の準備がっ。


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20200508:続いてもいいですか……?

 

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