RE:START_B


そしてさらにベッドサイドから二本目を取り出して意識のないなまえに飲ませた。これでいい。もう取り返しがつかないのなら、これしかない。口端から垂れた水を舐め上げた。願いを込めてキスをするが、願いだなんてかわいい言葉を使うにはあまりにも生々しく、艶やかに唇が光っていた。これはただの執念だ。歪んで拗れた執着心。それから、ただ、彼女に。
そう。だからこそ。
携帯電話を手に取った。準備はできている。さあ、最後の計画を実行に移す時だ。



全身が水を吸っているように重い。何事なのだろうとどうにか寝返りを打ちながら、体を起こす。顔の上にタオルが乗っていたらしく、起きると腰に落ちていった。目でも冷やしていたんだったか。よく覚えていない。他に変わったことはないかと見渡す。自分の部屋だ。変わったところはない。昨夜の状態を引き継いでいる。なまえは何故かその当たり前なことにどうしてかひどく安堵した。
やたらと喉が渇いているので冷蔵庫へミネラルウォーターを取りに向かうと、テーブルの上に散らかっている書類が目に付いた。次の勤務日までにできるだけ覚えておくようにと渡されたメニュー表だ。
灰島を辞めて、ひと月と経たずに新しい勤め先が決まったことは幸運だった。灰島にだけは絶対に戻りたくない。あの会社と来たら良いのは給料くらいで、他のことはと言えば。――――なのだから。「うん?」今、なにかに思考を邪魔された。正確には、その部分が丸ごと抜け落ちているような違和感を感じた。
灰島には仲の良い友人もいたのに、何故、辞めたんだったか。上手く思い出せない。なまえは、今朝確実に見ていたはずの悪夢が思い出せなくなっているような、そんな薄気味悪さを感じてそれ以上考えることはやめた。思い出せないということは、きっと、大したことではない。そうに違いない。



報告によると、例の薬はなまえにはちゃんと効いているようだった。
どういう仕組みなのかはよく分からないが、最後に目にした人間との記憶の一切を焼き尽くすという代物、らしい。成功するのは百人試して二人か三人程度。その三パーセントに満たない確率をなまえは見事に引き当てた。実験結果の報告と引き換えに薬を貰い受けた為、現在わかっている事実のみを伝えると、その科学者は半笑いで「相手のことを忘れたい程憎んでいることと成功率に関わりはあるのだろうか」と嫌な仮説を構築しはじめた。それでは、なまえが大黒を忘れたい程憎んでいたことになってしまう。実際その通りだろうが。
ともかく、なまえを監視させている奴らからの報告では、なまえは食堂で元気にアルバイトをしているし、『大黒部長』の話題には驚くほど無反応であるそうだ。
大黒の計画では、大黒もまた記憶を捨てる予定であった。ただしそれはなまえの記憶ではなく、大黒が『記憶の一切を失ってしまっても良い人間』として選んだ女の記憶を捨てるつもりでいた。自分となまえが薬を飲んだ後、なまえに目隠しをして、その使い走りの女を呼んだ。なまえを車に乗せた後、その女を改めて見る。たったこれだけの手続きを踏めば、大黒が忘れる人間はその女ということになる。
この時点で、大黒に薬が効いても効かなくとも問題はない。飲まない、という選択をしなかったのは、ただの毒味である。試しもせずになまえに飲ませて、深刻なことが起こっては堪らない。自分で飲んで、なんともなかったのでなまえにも飲ませた。なんともないことがわかれば、以降、大黒が薬を先に飲む手続きは必要なくなる。この作戦は、成功しなければ何度でも同じ手順を踏んで繰り返すことができる。
結果、なまえは大黒の記憶を失くしている。この結果が得られれば第一の目的は達成されている。作戦の第二段階はもちろん、なまえと知り合いになることである。
だから、大黒はまず、気軽な気持ちでなまえの勤める食堂へ足を運んだ。

「いらっしゃいませ」

注文を取りに来たなまえに「君のオススメを」と聞くと、なまえは「オムライスが美味しいですよ」とふわりと笑った。泣いてはいけない。これは別に、なにも特別なことではないのだ。なまえはただ、一人の客に、店員として笑いかけただけなのである。
なまえが忙しく働く姿を(気付かれないように)存分に見つめて席を立つ。大黒が立ち上がったのに気付いて、なまえは手早く会計を済ませた。「ありがとうございました」と笑うなまえをじっと見つめる。「なにか……?」彼女は不安そうに言った。「ああ、いや」

「どこかで会ったかな、と思ってな」
「え、いえ……、はじめてお会いする、と思います」

大黒についての記憶は消えたが、異性への恐怖心は残っているようで距離を取られる。大黒は「冷静であれ」と自分に言い聞かせながら、距離を詰めないようにする。できるだけ善良な男に見えるように工夫して、笑顔を作って、困ったような声を出す。

「ああすまない。こういう遠回しなのは良くないな。実は君に一目惚れをしたみたいでな。困っている」
「ええ?」

なまえは戸惑っている。冗談か本気かわかりかねる、という顔でじっと大黒を見つめている。今なら時間が止まってもいい。
だが、仕事中にあまりしつこくすると嫌われるかもしれない。今日のところは冗談にしてしまうのがいい。肩をすくめて「冗談だ」と言うと、なまえは露骨に安堵した風だった。ちょっとくらいがっかりしてくれてもいいのだが。

「それはともかく、ごちそうさま。美味かったよ。――また来ても?」
「え、ああ、はい。お待ちしてます」

好意は伝わっていないだろう。ただ、『大黒』という人間の印象は残せたはずである。次に会った時はもう少し気安くなっているはずだ。人間、何度も顔を合わせていれば慣れるし、特別に嫌われるようなことさえしなければ心を開いてくれるものだ。

「ありがとうございました」

飛び跳ねて喜びたい気持ちを押さえて、軽く手を振るに留めた。次はいつ行くのがいいだろうか。明日、とかだと引かれるだろう。もう少し間を開けた方が良い。



その男は大体、三日に一度現れた。
「やあ」と、既に常連のような気安さで店に入り、なまえに声をかけた。「いらっしゃいませ」となまえは形式的な挨拶を返す。なにか、世間話でもするべきだろうか、と思うが、何故か彼を目の前にすると不安になる。怖がっているのかもしれない。いまいち自分で自分が彼に対してどういう感情でいるのかわからないが、漠然と、あまり近付きすぎるべきではない、と感じている。近付きたいとも思えない。が。

「君は本当に笑顔が素敵だな。連日の仕事の疲れが吹き飛ぶよ!」

彼は始終この調子である。
大袈裟にして、言葉の持つ重量を軽くしたかったのかもしれない。あるいは、腹の中に抱える感情を隠したかったのかもしれない。真意は読めないが、何か大変なものが隠されていることだけはわかる。なまえはいつも通りに「ありがとうございます」とだけ返す。
彼は『大黒』と言う名前らしい。「大黒さん」と(一応店の客なので)覚える為に繰り返すと、大黒はまるでペットが芸でも覚えた時のように「ああそうだ。エライな」と喜んだ。なまえは、悪夢を見ているような気持ちになる。不快だ。と思う。説明は難しい。ただ、無条件に嫌悪感が湧き上がる。いつもいつも何故だろうかと考えるが、いまいち明確にはわからない。理由がわかれば少しはマシかと思うのだが。「ごちそうさま」声をかけられてはっとする。きっちりお釣りを返して顔を上げると、幸せそうに大黒は言った。

「今日も美味かった。また来るよ」

君に会いにな。と、軽くウインクをされた。
ただ黙って頭を下げた。こうすると、顔を見ずに済んでいい。



一度目は「男の人が怖いので」とやんわり断られた。ニ度目は「ごめんなさい」の一点張りであった。三度目は誘う前に店を辞められた。これは四度目だ。どうにかデートの一度くらいさせて貰えてもいいのでは、と思うのだが、なまえは頑なに首を縦には振らない。四度目は最初から全力で、初対面から手を掴んでみた。そして、やってしまったという風に平謝りをしてみた。感情があふれてやってしまった、という演技を続けていると、はじめて少しだけなまえに信頼されている気配があった。今度こそはと思いながら、なまえの顔を覗き込むようにして聞いてみる。

「よかったら食事でもどうだろうか? 好きなものを御馳走させてくれ」
「え、いえ、」
「ああ、すまないな、いつもの悪い癖が……。嫌だったら断ってくれて構わない」
「嫌って言うか、えっと……」

これははじめての反応だった。思考時間も随分長い。良いことが起きる前触れであるように思えてならない。ここで答えを急いてはいけないと「本当に悪かった」となまえの手にチップを握らせ、どさくさでぎゅっと握った。

「また、来るからな。考えておいて欲しい」
「あの」
「うん?」
「こういうの、困るので」

チップを突き返されて、ついでに、左手の薬指に光っている指輪も見せつけられた。一週間程前からそこにはまっている。それが一体なんだというのか、さっぱり意味がわからない。とは言え相手の特定は済んでいる。なるほどこういう男がいいのか、と、一通りの分析も済んでいる。誠に残念ながら女性関係の悪い噂は一つも出てこなかった。なければ作ればよいだけなので問題はないが、街中でうっかり二人で歩いているところなどを見た日には向こう一週間は荒れに荒れるので、早急になんとかするべき問題である。

「そうか」

店を出て、なまえのことを考える。今回の自分は、一体どこが駄目だったのだろうが。――どう考えてもあの男より俺の方がいいはずだが。なまえは案外男を見る目がない。こんなになまえのことを愛している男は他にいないのに、遂に四回目も駄目だった。五回目をはじめるための準備をしなければならない。ああできることなら先にあの男の存在をなまえの中から消し去ってから五回目をしたいが、一般人ならともかく相手は特殊消防隊の人間だ。あまり迂闊に手を出せない。リスクを背負わずできることと言えばさっさと別れろと念を送ることと、人を使って悪い噂を作り上げることくらいだ。直接的にはなにもできない現状が恨めしい。
ぐっと体を伸ばす。今度の店の料理は量が多いので胃にもたれる。まあ、なまえの顔を見ながら食べていれば苦ではないが。

「またあいつに連絡をしておくか。薬を用意してもらわなければならないしな!」

次はきっと、次こそきっと上手くいくはずだ。

――俺は必ず、なまえと恋をしてみせる。


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20210313
ここまで読んで頂いてありがとうございました。あれ。なんでこんなことになったんだっけな。とにかくありがとうございます。決められなかったのでもう好きな方をトゥルーエンドにして下さい…。たぶんこっちのほうが地獄度が高いと思うんですけどどうですかね…。何度やっても運命が交わらなかったら普通の人間なら発狂すると思うんですけど部長はたぶん大丈夫。謎の信頼をおいているので引き続き頑張って欲しいです。改めまして本当に本当にありがとうございました!

 

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