RESTART_A


三つ目を外したところで彼女は何も言わずなんの反応もなく、しかし、これをしてしまったらこれから先、二度と口を聞いて貰えない気がして、手が止まった。嫌がるし苦しむだろう。そんな姿は、本当はいつだって見たくないのに。それ以上に、自分のそばにいてくれないことが耐えられない。だから、もう、方法はきっとこれしかない。



目を開けると、真っ先に感じたのは頭の痛みだった。少しでも揺らすと、ずき、と痛む。持ち上げるにも嫌に重たい。ベッドに身体が沈み込む。家のベッドはこんなに柔らかかっただろうか、考えていると「起きたのか」と声をかけられた。その声に驚いた後、全部を思い出してぎり、と上下の歯を擦り合わせた。

「俺は考えたんだが、どうしても、君をこのまま返すわけにはいかない」
「意味がわからない」
「時間が経つのを待つのが一番いいとは思うんだが、待っていて、誰かに君を取られましたじゃあ話にならないしな」

体を起こそうとするが上手くいかずに、顔だけを動かして大黒の位置を確認する。ベッドの隣に、ベッドの縁に背を預けて座っている。こちらは見ていない。膝を抱えるように座っているからか小さく見える。首に力を入れていると、ずきずきと頭の痛みが増して来る。確実に何か盛られた。料理の味がおかしい時点で食べるのをやめればよかった。なまえは大きく溜息を吐きながら、出来る限り状況を理解しないように努める。いつかの出来事とオーバーラップすると途端に身体が震えはじめるだろうから。

「私が、大黒部長を好きになることはないですよ」

時間が経とうが、経たなかろうが、万が一、好きになることがあったとしてもこの男だけはあり得ないと思う。人間として尊敬できるところがひとつも無い。こんな迷惑な人間には出会ったことがなかった。できるだけきっぱりと伝えたが、大黒はわからないフリでなまえの言葉を受け流す。

「大丈夫だ。君はきっと、俺を好きになってくれる」
「頭湧いてんですか」
「俺はもう、君が嫌だということはしない」

ふざけるな、と体に力を込めると、少しだけ腕が動いた。いつもよりずっと重いのは薬のせいだけではない。
手首にひやりと冷たいものが触れて、動かすと、じゃり、と何かが擦れる音がした。恐々指先で触れると、それがなんであるのか完全に理解できてしまった。鎖だ。なにが嫌がることはしない、だ。

「この拘束はどう説明するんですか。この鎖は。あとシャツのボタンあいてるんですが」
「シャツのボタンはあいてるだけだ。ちょっと見たしちょっと触ったが、そこまでしかしていない」

大黒はなまえに振り返った。青い顔をして逃げようとするなまえを止めずに、じっと見つめる。泣きそうになりながら、なまえはどうしたら逃げられるのか考える。死んでやるのは癪である。そもそもそんな度胸はない。特に、ビルから飛び降りるならともかく舌を噛み切るのは痛そうだ。呼吸が浅く、荒くなってきた。頭も痛い。

「俺から離れたい、という願い以外は全て叶える。無理矢理触ることもないし、喋るなというなら黙っている。何か欲しいものがあるなら買ってくる。だから、ここにいてくれ」
「離れたいって願いさえ聞いて貰えたらなにもいりません」
「駄目だ。それだけは聞けない」

こんな状況で、一体誰が救われるのか。なまえにはわからなかった。こちらに伸びてきた手を拒絶するためだけに声を出す。

「嫌だ、触らないで」
「……ああ。いいとも。許可が出るまで俺が君に触れることはない」

何故。どうして。その誓いに何を期待しているのか。気持ち悪くて吐きそうで、とてもじゃないが詳細を聞きたくないなと思った。なまえはそう思っているが、大黒はなまえと話がしたくて堪らない様子で一定の距離を保ったまま首を傾げる。

「告白の続きを聞いてくれないか」
「聞きたくありません」
「そうか。わかった。やめておこう」

ならば、なんの話しがいいだろうか。そんなことを言い出した大黒の横顔は大変に穏やかで、安堵している様に見えて、なまえはついに涙を零した。



なまえが泣いている。涙を拭こうとしたら「触らないで下さい」とまた言われてしまった。「だが」と食い下がろうとした途端に「こっちを見ないで下さい」とまで言われたので、もうなにもできない。それでも、彼女はそこにいるしかない。泣いても怒ってもそこにいるしかできない。
ずっと、ここから逃れるための方法を考えているようだが、良い案は一つも思いつかないからだろう。彼女はついに泣いてしまった。

「なにか食べないか。水だけでも口にしたほうがいい」

どれだけの時間が経ってもなまえはここにいる。今日からは、仕事に行って帰ってくるとなまえの顔を見られる。なまえはいつかきっとここでの生活にも慣れてくれるだろう。そのための努力は惜しまないつもりだ。ここから逃がす以外のことなら、なんだって叶えてやりたい。どれだけ大変なことでも、必ず。

「……大黒部長」

なまえから呼びかけられるのも久しぶりで、体が熱くなる。這うように近づき、興奮して早口になる。

「部長はよせ、もう君は灰島の社員じゃないんだからな。遠慮なく下の名前で呼んでくれ。なにか特別な呼び方をしてもいいぞ。そうだな、例えば」
「大黒部長」

そう呼びたいならそれでいい。「……なんだ。どうした?」優しく丁寧に発音すると、息を詰まらせる音がした。お互いに動いてさえいないから、彼女の頬からベッドに涙が落ちる音まで聞こえる。

「幸せになりたい」

万策尽くして幸せにしたいと思っている。誰もが羨ましがるような人生にしたいと、思っている。最後にはこれで良かったと心の底から思って貰えるようにしたい。彼女が今一番望むことを叶えられない自分にそれができるのか、本当はひとつも確信がない。

「……俺もだよ」

幸せになりたくない人間なんていない。そう続けるとなまえが枕を投げてきた。痛くはないが、とても痛い。

「もっと普通の、恋がしたい」

君がしてくれなかったんだと言いかけた。言いかけただけだ。言えるわけがない。諦めるようにはらはらと泣くなまえを想像の中だけで抱きしめる。近付くと、お互いの体に長い針が突き刺さるからだ。

「ああ、俺もだ」

なまえはしばらく泣き続けると眠ってしまって、起きると、ただそこで日々を過ごすだけの生き物になった。徐々に心を手放して、何も答えず、何も反応しない。そういうものに成り果てて行った。

「なあ、なまえ。本当にいいんだな?」

なまえは答えない。生気のない暗い眼差しでぼんやりしている。状況は最初に戻った。何も言われないのをいいことに、勝手に解釈して、勝手に行動する。いいとも悪いとも言わない女の体に触れると「これは違う」と叫び出す自分を押さえつけて抱いた。
これでいい。
彼女の隣だけは確保した。
これこそが、俺が欲しくてたまらなかったものだ。ようやく手に入った。もう逃がさない。だから、はあ、もう、みっともないから泣くんじゃない。泣いたって彼女は見ていないし、涙が美しいのはこの世界でただ一人だけなのだから。



五年後。
子供が生まれると、子供の前でのみ、子供の話題に限り、笑ってくれるようになった。五年ぶりかに見た彼女の笑顔を見つめていると、張り詰めていたものが解けていくのを感じる。ゆっくりゆっくり失われて行ったなまえの意志や感情が、ゆっくり、戻って来ていた。が、子供の前でなければ大体同じだ。いや、触ろうとすると怒られるようになったので、ひどくなった。拒否する気力が戻っているのは果たしていいことなのか悪いことなのか。子供にとってはいいだろうが、俺にしてみれば悪いことだ。俺が妬くし。俺だけが寂しい。しかし、どうだろう。子供が、この状況に疑問を抱く前に、環境を整えておく必要があるのではないか。俺はそんなようなことを言って、いつかの指輪と婚姻届けを彼女の目の前に置いた。「ああ」彼女は無感動にそう返事をした。ペンを持つ手をドキドキしながら見つめていると、ピタリ、と止まった。

「確か、未婚出産の場合、自動的に親権は母親になるんでしたね」

考え込む彼女は「これ、いりません」と指輪と婚姻届けを俺に押し返し、じっと考え込んでいた。何を考えているのか、あまり想像したくない。まさか。彼女はまだ俺から逃れるつもりなのだろうか。あんなにも一緒にいたのに、離れることを考えているのか。まだ、普通の幸せだとか、恋だとか、そんなものが欲しいと思っているのだろうか。叫びだしたくなるほどの胸の痛みに耐えながらなまえを見る。なにかに挑むように両目が光る。嘘だろう。

「なまえ」

咄嗟に、彼女に手が伸びる。なまえはいつだかと同じように、いや、より強い瞳でこちらを睨んで強く言う。

「離して下さい」
「離すものか。いいか、もしお前がここから逃げるようなことがあれば」
「もし」

長い年月で、彼女は大黒への恐怖心を克服してしまっていた。今彼女にとっていちばん怖いことは、彼女の中には無いのだろう。そして彼女は、自分が大黒にとってどういう位置付けの人間であるのかをよく理解している。

「もし、貴方が私の大事なものになにかするようなことがあれば」

その大事なものの中に、大黒は入っていない。何をしても何を言っても、こちらを振り向くことがなかった。何年経っても許してくれないままだ。大黒は燃えるような瞳をするなまえに気圧され、顔をひきつらせて応える。

「あれば、なんだ」

なまえはにこりと微笑んだ。剣呑な光を宿す笑みなのに、どきりとしてしまう。笑いかけられたのは、いつ振りだろうか。ごく、と喉が鳴る。からからに乾いた体に一滴の水が染み渡る。

「どんな手段を使っても、子供を連れて、逃げてやりますから」

彼女を母親にしたのは、失敗だったかもしれない。


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20210312:できる限りハッピーエンドを目指したパターンA

 

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