RE:START


食料品の買い出しに出た。信号待ちをしていると、後ろから声をかけられる。

「あ、みょうじさん?」

「うわ」と、ある男のせいで表に出て来やすくなった嫌悪の感情を飲み込んだ。一つ前の職場の同僚に声をかけられたからと言って、嫌な顔をするのは彼女に失礼である。なまえはできるだけ自然に「久しぶり」と言葉を返す。
彼女と特別親しかった記憶はないが、最近はどうかとか、元気だったかと、そんな話を二、三した。それから、彼女は、不意にきょろきょろと周囲を見回し、突然距離を詰めて来た。「え、な、なに?」こんなに他人に近付かれたのはいつぶりか。唇が耳にくっつきそうな距離で彼女は言う。「相談に乗ってほしいことがあるんだけど」それはこんなに寄って言うことか。なまえは彼女の切羽詰まった様子に圧倒されて「うん」と頷く。「ここじゃなんだから、ちょっと。私の家すぐそこなの」「え、ああ、うん」正直、声をかけられた瞬間から嫌な予感はしていた。失礼だから、と言う直感のような理由で走って逃げなかったのは、最近の日々が平和的でとても人間的だからだろう。ちょっとの油断でひどく面倒な目に遭っていたあの日々のことを、その日、なまえは鮮明に思い出した。

「ようこそ。我が城へ。いや、我らが愛の巣へ、か?」

彼女は私をテーブルに座らせると肩を押さえ付けて、青い顔をして言った。「ごめんね。本当に、ごめん」これはただ事ではないと思った時にはもう遅い。走って部屋を出て行く彼女と入れ替わりに大黒が部屋に入って来た。玄関扉が開き、そして閉まる音がする。彼女は走って逃げたようだ。なんでもありだな、と席を立とうとすると、大黒は「いいのか?」と笑った。

「君が逃げたらあいつはどうなると思う?」
「……最悪ですね」
「なんとでも言えばいい」

約一か月ぶりに会った大黒にあまり変化はない。落ち着きがなく自分の家をうろうろとして、なまえをちらちらと見る。なまえはぎりぎりと胃が痛むのを感じながら「それで」と言う。

「私はなにをしたらあの人の助けになれるんですか」
「もちろん。この婚姻届けにサインと印鑑を」
「彼女には悪いですけどそこまでして助ける義理はありませんね」
「冗談だ。今日はホワイトデーだろう? 先月のお礼をする日だ。俺にお礼をさせてくれたらそれだけでいい。具体的にはな、ちょっと料理を作ってみたので食べてみてくれ。という話になるんだが。君は料理ができる男が好きだと言っていただろう。料理ができる男は好感度が高い、とかなんとか。君の好き嫌いは全て把握してるつもりなんだが、何か増えていたり減っていたりするのか? ない? そうか。それはそれとして、髪が、伸びたな。灰島では見なかった髪型だ。ちょっと気合が入ってないか? それはその、何故? いや、似合う。綺麗だ。とてもいいんだが。まさか誰か、見せる相手がいるんじゃないかと。見せたい相手、の可能性もあるか。俺がおかしな邪推に潰されて暴走する前に本当のことを教えておいた方がいいと思わないか?」
「……」

ここで「恋人がいるので」と嘘をつくだけで引き下がってくれるようならいいのだが、そんなに殊勝な男には見えない。かと言って「意味なんてない」という答えもどうなのだろう。考えた末、なまえは、質問に答える義理はないという結論に達した。

「じゃあ、食べたら帰っていいんですね」
「話の八割を無視か……。いや、十割無視じゃないだけ一月前のあの日よりいくらかマシだな! そうだ。今用意するからそこでテレビでも見て待っていてくれ」

なまえは自分の荷物から文庫本を取り出して読み始めた。本に集中しているフリで、途中の雑談は聞こえていないことにした。呼び起される、一か月前の日々の思い出が不快だった。



料理を並べると、なまえは「いただきます」と手を合わせて、無言で食べ始めた。家庭的な料理が好きだと言っていたのを覚えていた大黒は、スタンダードな家庭料理を一通り並べてみる。なまえの目は明らかに「多いな」と量に対する文句を述べていたが、なまえがよくそうするように聞こえないフリで、なまえの挙動を見守った。

「これは」

なまえが言う。

「びっくりするくらいおいしくないんですが、どうしたらこうなるんですか」
「……レシピ通りだが?」
「絶対に嘘ですよ。なんでこの、なに? なんのにおいですかこれ、鼻から頭に抜けていく……、絶対になにか余計なことしてますよね。なんで人に振舞う料理で冒険するんです」
「レシピ通りなんだが」

「そんなはずない」となまえは言う。なまえの語彙では「美味しくはない」と言うのが限界らしく、根本的な原因を探り切れない、不安そうな顔で箸を進める。早く帰りたいという思いからそうしているのだろうが、皿を、片っ端から片付けていくのを見ていると、大黒は胸をぐっと押さえずにはいられなかった。「全部食え」とは言っていないのに彼女は、目の前に、自分の為に出されたとそれだけの理由で食べ進めている。この作戦は、下手をすれば一口食べて「食べましたよ」と箸を置かれる想定をしていたので、こんなにしっかり食べてくれるのを見ていると目頭が熱くなってくる。苦労して作った甲斐があった。おいしくないらしいが。

「無理をして食べきる必要はないが」
「無理をして連れて来た人間の言葉ではないですね」

彼女の手は止まらない。新しい皿に手を伸ばしては「なんで?」と首を傾げている。正体不明の味の究明に躍起になっている風に見えなくもない。わからないわからないと言いながら卵焼きの皿に手を伸ばし一切れ口に入れる。「あ」

「これはおいしいですね」

彼女の強張った表情がやわらいだ。その表情は大黒の振舞った料理により見られたのだと思うと、感動のあまり言葉を失う。満面の笑みには程遠いが、まるで、普通の友人のような。
少し休憩、と水を飲むなまえを見つめる。こんなことならば。食事を再開しようとした彼女の手から箸が転がり落ちる。そんな顔が見られるのなら。「あれ。すいません」床に落ちた箸を拾おうとする彼女の傍へ寄って、がくりと椅子から落ちそうになった体を支えた。そこで彼女は気付いたのだろう、「クソ、そういうことか」と悪態をついた。さっきの穏やかな一瞬が嘘のように睨まれる。瞼が重そうにぴくぴくと動いている。

「最悪だ」

途切れ途切れに口にしながら、がくんとなまえの体が動かなくなった。体を抱き留め、そのまま抱きしめる。あんな風に喜んで貰えるとわかっていたら、薬なんか盛らなかったのに。
なまえの体を持ち上げてベッドに持って行く。中央に横たえて髪を撫でる。
一か月ぶりに見た彼女は、憑き物でも落ちたように顔色が良くて、髪や肌の調子も良さそうだった。一体なにが彼女をそうさせたのかなど考えるまでもない。力なく笑ってから、大黒はただ目の前になまえがいるという現実にだけ集中する。

「なまえ」

この一か月、俺がどんな気持ちで過ごしたと思う?
これはきっともう二度とないチャンスだ。ここでなにをするかが今後の展開を左右する、という気がする。同じ方法はもう使えないし、家まで押しかけたら今度こそ警察を呼ばれるだろう。時間が解決してくれる、なんて悠長なことは考えられない。彼女の隣はこんなにも居心地が良いのだから、ここが、いつまでも空いている保証なんてどこにもない。髪を持ち上げて毛先にキスをし、においを確かめる。髪の匂いも一か月前とは異なっている。
なまえを見つめて、シャツのボタンを一つはずす。紺色の下着がちらりと見えた。どうする。
どうしたら俺が欲しいものは手に入るのだろうか。

▼もう一つ、二つとボタンを外していく。

▼ベッド脇に置いてあった小さなビンの中身を飲み干す。



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20210304:14日までにはリンク先両方とも用意します。しばらくおまちください。

 

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