人生で一番緊張した日(後編)


悪気はいつだってない。
バレンタイン当日にこれ以上は構わないと約束したが、結局のところ大黒は耐えられなくなりなまえの様子を見に行った。これ以上怒らせたくないし折角もらった(と思われる)好感度を下げたくもなく「見るだけ、見るだけだ」と呪文を唱えながらなまえのデスクが見えるところまで移動した。
部屋を覗くと、社員は全員帰っているように見えた。だが、明かりが付いている。消し忘れかとも思うが、ゆっくり歩いて行くと、なまえがデスクに突っ伏して眠っていた。
様々な感情がかけめぐる。
とりあえず寝顔を一枚カメラに収めてじっとなまえを見下ろす。ふわりと閉じられた瞼だとか、手の甲に乗っている頬だとか、やや荒れてしまっている唇。その奥の口の中。そうっと伸びかける手を反対の手で押さえるのだが、利き手とは逆の手は力が弱いのでだんだんとなまえに指先が近付いていく。
ついに、ぷに、と頬を指で押してしまって、ぶわり、と、自分を中心に空気が振動したような衝撃があった。とても、やわらかい。顔にかかっていた髪をそのまま指ですくって後ろに流す。寝顔が大変によく見える。追加で三枚写真を撮って、それからふと、彼女が投げ出すようにしている左手に意識が行った。
新調したらしいブレスレットは彼女の手首をより華奢に美しく彩っていて素晴らしい。が、指にもなにか装飾があるとよりよくなるのではないか。大黒はそう考えて、なまえは自分のことが好きでもなんでもないと発覚した大事件の日以来持ち歩いている指輪をポケットから取り出した。台座から取って、ゆっくりなまえの左手を取り、薬指にはめる。

「ぴったりじゃないか……!」

同じような方法でサイズを図ったので当然だが、それでも感動した。この指輪は、彼女につけられる為にあったのではないか。体が震える。楽しくなってきて大黒は自分の左手の薬指にも指輪をつけて、なまえの手に自分の手を絡めて「まるで恋人同士のようだな」と頬を赤くしていた。なまえは起きない。起きないのをいいことに、その感動的な絵をカメラに収めるべく五度ほどシャッターを押した。

「ん、」
「おっと、折角気持ちよく眠っているのを起こしてしまうのは、いい恋人とは言えないな」

そもそも恋人ではない。と、以前までのなまえならばツッコミを入れていたのだが、最近のなまえは何を言っても無言で、相手をするのも馬鹿馬鹿しいとばかりに溜息を吐く。どれだけ寂しい思いをしているのか彼女は知らないだろう。
とは言えこれ以上やると、なりふり構わず仕事を辞めると言い出しかねないので、そっと自分のデスクへ戻った。早速パソコンに画像を取り込む。我ながら良く撮れているなと感心し、それなりに満足していたのだけれど、起きている時の、冷え切った表情を思い出して気持ちは急速に萎んでいった。彼女さえいれば幸せだったが、最近、明らかに落ち込んでいる時間の方が長い。彼女に好かれていると思い込んでいた時の方が調子が良かった。

「例えば、彼女と俺が恋人同士なら、」

彼女は当然、より特別なチョコレートをくれたのだろうし、大黒が欲しいというものを頭から拒否するということはなかったはずだ。そもそも、挨拶を無視されることもなければ、声をかけても返事がないということもなく、食事に誘っても無言でいられるなんてことはやっぱりなく。今頃は二人で街にでも繰り出して楽しくデートの一つや二つしているはずなのに。一体どうして理想と現実はこんなにかけ離れることになってしまったのか。いや、どうして、ということもないが。
溜息を吐いて、目を閉じる。彼女が隣で笑ってくれる、という楽観的な夢はあまり見られなくなってきた。ここ数日は夢ですらもとんでもなく冷たくあしらわれている。夢くらい夢らしく薔薇色であってほしい。
夢すらも味方にならないのならば、と、大黒は社内の連絡に使われる掲示板にアクセスし、先ほど撮ったばかりの写真を一枚貼り付け、コメントを書いた。『Happy Valentine's Day.』それだけだ。それだけのことだった。なんならこの投稿は、このままにしておくのはまずいと思い三十分程度で消した。
だから、断じて、悪気はなかった。

「どうするんですか。これ」

だが、その三十分で記事を見て、画面のスクリーンショットを撮った人間がいたらしく、それが瞬く間に社内に散らばった。翌日の昼にはなまえと大黒は社員に囲まれ「おめでとう」だの「式には呼んで下さい」だのととんでもない騒ぎであった。
なまえは、すぐに事態を把握することはできなかったようだが、親切な同僚に例のスクリーンショットを見せられ、全てを察していた。
お互いの左手がうつっているだけの写真なのだが、よく見れば、ご丁寧にブレスレットと、なまえが使っているペンまでうつり込んでいた。特定されるまでに大して時間はかからなかった。更に投稿者は大黒であるから、男の方が誰かは推測するまでもない。答えがそこに書いてあったというわけだ。

「どうするんです」

祝福ムードの社員たちに囲まれながら、なまえは人を二、三人刺し殺しそうな目で大黒に言った。「部長」地を這うような声で責められているが、大黒は今、周囲の反応に酔っていてそれどころではない。ここにいる全員に、なまえと大黒は恋人同士だと思われている。それならばもう、実質恋人同士なのではないか。そんな気持ちになってくる。なまえも、一週間もこの空気の真ん中にいたら、そんな気がしてくるんじゃないだろうか。周囲の社員達は依然勝手に盛り上がっている。

「どうしようなあ」

顔がにやけるのが止められない。照れたように頭を掻く大黒に対して、なまえからはどんどん表情が消えていく。大黒のにやけ顔と「困ったな」と言う全く困っていなさそうな浮かれた声を聞いて、なまえの中で何かが切れた。ぷつ、という音が周囲に居た何人かには聞こえていた。
残念ながら大黒には何も届いておらず、呑気に「いっそ本当に恋人になってみるというのはどうだろうか」などと提案した。

「大黒部長」
「うん?」

大黒は、ここでやっとはっとする。しまった。今やるべきことは調子に乗って見せることでもなければ、にやけて浮かれることでもない。彼女に平身低頭して詫びることである。心の底から反省しているフリをすることであった。なまえのことに関して何一つ先手を取れない大黒は今回も、なまえより早くは動けない。
なまえは鋭く言った。

「死んでください」

胸をえぐるような言葉であった。
大黒はくらりと眩暈がするのを感じながら、それでも周囲の誤解を解いてしまいたくなくて声をひそめてなまえに言う。

「し、死ねはひどいだろう」

なまえは「はっ」と何もかも捨て去ったような笑い声だけを漏らして、鞄を持って一歩前に出た。正面に居た社員がなまえの様子を見てびくりと震える。普段の穏やかな彼女は今、どこにもいない。「退いてください」と感情の籠らない声で言われて、道を開ける。彼女はその道をすたすたと歩いて行く。

「もう二度と来るかこんな会社」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。まだ次の働き口が決まっていないだろう?」
「辞めます」
「や、辞める!?」

そしてその彼女を大黒は追いかけるのだが、肩に触れるとボールペンで刺されかけて慌てて手を離す。これは本気だ、とわかる。今彼女が大黒に危害を加えないでいられるのは、せいぜい攻撃手段がボールペンくらいしかないからだ。彼女が銃を持っていたら、絶対に撃たれている。しかも、一発じゃない。全弾撃ち切るまで撃たれているに違いない。
こうなったら感情でなく尤もらしいことを言うしかないと、急に上司ぶってみる。

「君な、社会人としての責任というものが」
「は?」

空気が吹雪いた。ホワイトアウトもしたし、このあたりだけ温度が異様に低い。なまえは真っすぐに歩いて行く。

「もう二度と私の前に現れないで下さい」
「と、友達だろう?」
「絶交ですよ」
「待て、待ってくれ」

なまえの正面に回って頭を下げる。「すまない」人生で一番心を込めた謝罪であった自信がある。なまえの顔は怖くて見られなかったが、とにかく、思いつく限りの謝罪の言葉を吐き出していく。

「悪かった、俺が、悪かった。本当に申し訳ないことをした。誤解の方は俺がなんとかしておく。だから辞めないでくれ。君に会社を辞められたら俺は一体いつ君に声をかけたり顔をみたりしたらいいんだ」
「私はもう一生声も聞きたくなければ顔もみたくないです」
「やめてくれそんなもの俺に死ねと言ってるようなものだぞ」
「私は、部長に、死ねって言ってるんです」
「そろそろ再起不能になりそうなんだが、その、わかった、今日は休んでいい。だから明日は」

なまえは首から下げていた社員証と、鞄の中の仕事関連の書類を大黒に思い切り投げつけて言った。

「さようなら」

そして彼女は本当に、その日以降会社に来ることはなく、こちらからの連絡には一切応じなかった。その内彼女のデスクには新しい社員が座り、彼女の私物は全て片付けられ、彼女の存在は次第に忘れ去られて行った。もう、残り香すらもない。
他社員に話し掛ける時の笑顔だとか、同期の女子社員と盛り上がっている時の声だとか、嫌そうに書類を持ってくる姿だとか、一人でいる時の柔らかい雰囲気だとか、そういうものが一切見られなくなったわけだ。大黒はなんとかなまえの姿を思い出そうとするが、日を追うごとに色を失っていく。このままではまずい。「もう諦めたほうがいいんじゃないか」と冷静な声が聞こえたが、諦めるとはどういうことかと言えば、なまえを他の男に差し出すことに他ならない。そんなことはあってはならない。大丈夫だ。なまえは優しい。誠心誠意謝れば、気持ちが伝われば、会社に戻ってこないまでも友人にくらいはなれるかもしれない。
最大の口実のできる来月、どうにかするしかない。


----------
20210214;ホワイトデー編に続く!と思う

 

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -