人生で一番緊張した日(前編)


「もうすぐバレンタインだな!」なまえは応えず、書類だけを受け取って軽く会釈をした。家に上がり込まれたあの日から、極力会話をしないようにしている。できれば目も合わせたくはない。そうこうしている間に、このどうしようもない恐怖心が、薄れてくれることを願っていた。

「……君は、誰かにあげるのか」

流石に上司である以上仕事の話をする必要はある。けれど、これは仕事に関係がないなと判断して、なまえは真っすぐ自分の席に戻った。
このやりとりが、本日、二月十四日までずっと続いていた。日曜日だというのにチーム全体の進捗が思わしくなく、午前中だけでもいいからと会社に呼び出された。「おはよう! 今日のブレスレットははじめて見たな! 新調したのか。とんでもなく似合ってるな」と、やたらとそわついて挨拶してきたのは例のごとく大黒で、なまえは思わず舌打ちしそうになった。この男はここに居る必要がないはずなのに。たぶん、たった一つの目的の為に出社してきたのだろう。
ご丁寧に会社の前で待ち伏せをして、他の社員には目もくれずになまえの傍に寄って来た。

「いい天気だな」

嫌味なくらいに真っ青な空を見上げて、大黒が言った。なまえからの返事がないことは計算内らしく、「今日はなんだか変な雰囲気だと思わないか」だの「そういえばバレンタインだったな」だの「金曜にいくつか受け取ったがやはり当日の方がいい」だの一人で話し続けている。内容はバレンタイン関連であればなんでもいいのだろう。微妙に軸がぶれた話だとなまえは溜息を吐いた。

「気分が優れないか? 帰るのなら送って行くが」

日曜日に会社に呼び出されれば誰でもこんな顔になる。怖い相手につきまとわれれば尚更だ。ただ今日は、昼過ぎから今度こそ友人と遊ぶ約束をしている。とは言え、下手に大黒に「友人が」という言葉を使うと自由自在に意味を増築されて、自分の都合の良いように変形させられてしまうので、黙っているのが一番だと最近気が付いた。口は禍の元だ。

「仕事をしていくのか。そうか。熱心だな。それで、だ」
「どうぞ」
「……ん?」

昨日まではそんなイベントの存在は忘れたみたいに振舞うと決めていたが、当日に顔を合わせる可能性が出て来るとなると、うるさく付き纏われることは簡単に予測ができた。付き纏われた挙句また友人と遊ぶのを邪魔されたら困る。ならば、と用意したのが、今、なまえが大黒の目の前に突き出している小さな赤い紙袋だ。会社帰りに適当な店で買った適当なものだが、中身がチョコなら問題はない。
先手を打って黙っていてもらう。それが一番確実だ。なまえはそう考えた。

「それ、あげますから、今日はもう私に構わないで下さい」

大黒は色々とそれっぽい台詞を用意してきていたようだが、すべてが吹き飛んでしまったのか、大人しくなまえから差し出されたチョコレートを受け取り、わけもわからずこくりと頷いた。

「あ、ああ」

全ての動作をストップさせて、全力でチョコレートを見下ろす大黒に「仕事以外の用事で声掛けてきたら返して貰います」と釘を刺して、なまえはさっさと、大黒をその場に置いて歩き出した。追いかけてこない。一安心だ。
一番面倒な事が片付いたような気がして、若干、気分が良くなった。



艶のある赤い紙袋の中央に、これは社名らしい文字がシックに刻印されている。聞いたことがないので大して大きな会社ではないのだろう。中を開けると、同じ色の小さな箱が出てきた。丁寧に包みを剥がすと正方形の箱が入っていて、ゆっくりと蓋を開ける。四つ、これまた正方形のチョコレートが並んでいる。チョコレートだ。ただのチョコレートではない。バレンタインに、なまえがくれた、チョコレート。
何度目を擦ってみてもチョコレートがある。欲しくて堪らなかったなまえからのチョコレートである。
自分のデスクに持ち帰ってじっと見下ろす。写真を撮って会社の連絡用掲示板にうっかりあげてしまいたい。

「いや、わかっている。わかっているとも……」

流石にもう『チョコレートを寄越して来た』イコール『自分に好意がある』と思えるほど楽観的ではない。けれど。
ばっと口元を押さえる。わかっているが、嬉しい気持ちは隠せない。今まで貰ったどんなチョコレートよりも安物なのだとわかるし、一分もかけずに選んだことは明白だが、それでも。

「……やはり、俺は、そこまで嫌われているわけでもないんじゃないか?」

ふふ。と、笑い声まで漏れて出る。なんといっても、これはバレンタインのチョコレートなのだから。大黒はぐっと椅子にもたれながら様々な角度から彼女のくれたものを見つめる。裏側にメッセージがあったりしないかと見てみるがそんなことはなく、手紙がどこかに挟まっていないかと探してみるが彼女が触れた形跡すらない。しかしそれでもだ。

「これで、ホワイトデーにお返しをするという義務が発生した……!」

「いりません」ときっぱり断るなまえがイメージとして浮かばないでもないが、「しかたないですね」と付き合ってくれるような気もする。バレンタインにチョコレートが貰えたならこのあとどんな展開でもありえるな、と大黒は遠巻きに彼女の仕事をする姿を見にいく為に席を立った。見るだけならばなまえの『構わない』という約束を違えないはずだ。
例えば恋人、いや、夫婦になるような急展開もありえるのかもしれない。
そんなことを考えながら廊下を歩いていると、ふと、女性社員たちの声がした。エレベーターを待っているらしい彼女達は、日曜日に会社に呼び出されたことの文句でも言い合っているのかと思ったが、それにしては楽し気に盛り上がっていた。その中心人物になっているのはなまえだ。
大黒は咄嗟に身を隠して会話の内容に聞き耳を立てる。

「ありがと。これでもうちょっと頑張れる」
「なまえがたまに作ってくるクッキーめちゃくちゃ美味しいから」
「うん、今日これがなかったら絶対バックレてた」

なまえが「いや、そんな大げさな」と照れている。
別フロアに向かうのだろう、同じく休日出勤の女性社員がエレベーターに乗り込むのを見送って、彼女は一人で、大黒の方へと歩いて来た。彼女の位置からは大黒は見えていないので足取りに迷いがない。曲がってきた彼女の腕を掴んだ。「ひっ」痛ましいほど怯えた顔で驚いているが、構わずなまえを問い詰める。

「あれは?」

なまえは腕を掴んだのが大黒であるとわかると、必死に腕を振り解こうとしている。煩わしいのでそのまま壁に押し付けて「あれはなんだ」と再び聞いた。なまえの体が震えはじめる。

「あれ、ってなんですか」

大黒がここにいた、ということは盗み聞きされていたと気付いてもよさそうなものだが、なまえは恐怖のあまり頭が動きずらくなっているようだ。「さっき、渡していただろう」見下ろす彼女を、どうにかしてしまいたくなる。

「俺には」

ないのか。大黒の言葉に、なまえは力を振り絞って体を捩る。壁からは逃れたが、腕は掴んだままだ。身体が離れたおかげでなまえはいくらか落ち着いて大黒を睨む。約束が違う、とでも言いたげだが、知った事ではない。

「随分扱いが違うんだな。友達だろう」
「自分がどんな無茶言ってるかわかってますか」
「同じものを適当に詰めるより、わざわざ分けて買ってくるほうが手間だな。考えようによっては、俺のほうに気持ちがあるように見えなくもないが?」

「下らない」と彼女は俺の手のひらを外そうとしている。下らなくなんかない。どうせくれるならあれがよかった。まさか彼女は、自分のそういう気持ちを知っていてこうしたのだろうか。この方が、大黒の気持ちを踏みつけられると、そう考えたのだろうか。「離して」なまえは涙目になって訴える。

「離してください。約束したじゃないですか」
「同じもの、余ってないのか?」
「部長にはもう渡したでしょう」
「俺もあれがいい。いや、俺こそが、世界でいちばんあれを欲しがっている自信がある」
「文句があるならさっきの返して下さい」
「それは断る。あれはもう俺が貰ったものだしな! 絶対に返さない。それで、もうないのか。一つくらい余っているだろう?」
「ありません」
「いいや、あるはずだ」
「約束したじゃないですか、今日は私に構わない」
「これは業務連絡だ」

開き直って笑う大黒に、なまえは「はあ」と溜息を吐いた。冷たい視線や突き放すような言葉はぐさぐさ体に刺さっているが、ここからでもどうにか彼女からの手作りの方も貰えないかと画策する。例えばそうだ、自分に構われたくないというなら、一週間構わないと約束をしてみるのはどうだろうか。実際に守る必要はない。貰ってしまえばこっちのものだからである。それでいこうと口を開くと、彼女が先に「大黒部長は」と溜息をつくように話しはじめた。

「大黒部長は、こんな約束も守ってくれないんですね」

そんなことを言われたって欲しいものは欲しいのだから仕方がない。こういうイベントにかこつけてでなければ、一体いつ貰えるというのだろう。また一年後? 冗談ではない。ただ、彼女のあまりにも残念そうな顔を見てしまうとこれ以上は踏み込み辛い。失望だとか、期待をして損をしたとか、普段の大黒であれば絶対に向けられない視線を受けている。約束。今日は彼女に構わない。

「……約束を守ったら何かいいことがあるのか」
「チョコレートがあるじゃないですか」
「市販のな」
「そんなに言うなら返して下さい」
「だからそれは嫌だと言っているだろう」

あれも彼女に貰ったものには違いない。ただ、彼女が配っていたあれはまさしく、大黒が彼女を好きになるきっかけになったものだ。別次元である。どう考えても較べようがない。どちらも欲しいに決まっている。
大黒はぎゅ、となまえの腕を握る手に力を込める。「痛い」

「離して下さい」
「離すはずがないと思わないか」

くれると言うまで離さない。彼女はきっと優しいから、このまま粘っていればその内には折れて「わかりましたから、離してください」と言うに違いない。「同じものを持って来たらいいんでしょう」と。
なまえは諦めたように息を吐いた。よし、と思うが、彼女から出てきた言葉は予想のものとは大分違っていた。

「……好感度」
「ん?」
「約束、守ってくれたらチョコに、好感度、つけます」
「こ、」

好感度。
なまえが「ちょっとですけどね。でも、マイナスのものが、ちょっと、ゼロに近付く」まるでそうしていけばいつかはプラスに転じるとでも言うような。いや、大黒は冷静に考える。そんなはずはない。確かに、約束を破る男よりは約束を守る男のほうが良いだろうが、彼女と自分の関係が、そんなこと程度で動くとは到底思えない。ならば何でなら動くのかと問われると、まだ答えは出ていないが。

「そ、そ、そんな目に見えないものをつけるだのつけないだの、そんな話で俺が揺れると思うのか? そんな不確かな話で?」
「いらないなら」
「いらないとは言っていない!」

踊らされている。これ以上ないくらいに。
なまえは本気で言っていない。好感度。好感。好ましいと思う感情。それの度合い。好感度。何度もその言葉が大黒の中で回る。なまえは違う。ただ、約束を守らせたくて適当なことを言っている。大黒と接する内にそういうことを言うようになった。拒否の仕方に容赦がなくなっている。好感度なんて目に見えないものを貰うより、形のあるものの方が良いに決まっている。だが、好感度だ。好感度。

「……悪かった。今日は、もう、君に構わない」

――しかたがないだろう。だって、好きになって欲しいのだから。



好感度、とは、適当に口をついて出た言葉だった。また何かを勘違いされたら堪らないが、今回は大人しく言うことを聞いてくれた。本当に業務が終わるまで姿を見せず、声もかけられなかった。なまえは久しぶりにほっと息を吐いて自分のデスクで体を伸ばす。ちらりと時間を確認する。約束の時間までは少しあるので、仕事をすすめて、それから三十分だけ仮眠を取った。静かな職場はすばらしい。
その後も特になにがあるわけでもなく、何度も先延ばしにされた遊ぶ約束もきっちり果たすことができた。
明日も仕事であると思うと憂鬱ではあったが、久しぶりに友人と楽しく過ごしたこと、大黒にあれこれ言われない煩わしさから一時的に解放されたことが相当に身体に良かったらしい、ぐっすり眠り、晴れやかな気持ちで朝を迎えた。しばらくは好感度がどうのこうのと言って構わないで貰おうか、いや、同じ手が二度通用するとは思えない。「視覚化しないか」などと提案してきてもおかしくはない。そんなことを考えていると晴れやかな気持ちは電車に乗る時には萎んでしまっていた。
やっぱりさっさと転職するに限るな。なまえは結局いつもと同じように出社する。

「なまえさん、やたらと大黒部長に付き纏われてると思ってたけど、ついに付き合うことになったんだな」
「は……?」
「昨日から? いや、もっと前からかな? 言ってくれればよかったのに」
「え、なに、なんですか?」

何故か、大黒部長となまえみょうじは恋人同士である、という噂が灰島重工の会社中で囁かれていた。いや、これは噂とかそんな生易しいものではない。声をかけてくる社員は全員確信を持って話しかけてきている。

「はあ……?」

この会社爆発しないかな。なまえは本気でそう思った。


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20210210:後編近日あげます。14日までには…。

 

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