関係改善大作戦・後編


なまえは思い切り扉を閉めようとしたが、それをすかさず大黒が掴む。徐々に力負けしているのが怖すぎる。
土曜日の朝、九時半を過ぎたあたりだ。友人が遊びに来る約束の日で、今、どのあたりだろうかとわくわくしながら待っていると、彼女にしては随分早くにインターホンが鳴った。おや、と思ったけれど、まあそういうこともあるかと扉を開けた。誰が来たのかは確認しなかった。
普通、上司が休日に押し掛けてくるだなんて、思わない。
なまえは泣きそうになりながらドアを押さえ、叫ぶ。

「なんでですか!」
「君が誘ってくれたんだろう!」
「誘ってません!」
「十時に来いと!」
「言ってないんですよ! 言ってない!」
「じゃあどういう意味だったんだ!」

叫んで、ドアを押さえて、更に考える。どういう意味だったか。誤解を与えるようなことをいつ言ったのか。大黒の言い分にさっぱり心当たりがない。自分は一体何を口走ったせいでこんなことに。間違っても誘ってないし十時に来いとも言っていない。「あ……?」しかし、その情報をこの男の前で言ったことは覚えている。土曜日、つまり今日、絶対に休みにして欲しくて、「明日は、何を言われても出勤しないのでよろしくお願いします」とわざわざ言いに行った。ここで止めておけばよかったんだとあの時の自分を呪い殺したくなる。「なにかあるのか?」ここで止めておけばよかった。「予定が。友達と、十時から」そんなことを言ったから、多分今、こんなことになっている。原因はわかったが、なまえは正気を保つために思う。私はなにも悪くない。と。どういう意味もこういう意味もない。

「友達と十時から約束があるって意味ですよ!」
「俺とじゃないか!」
「あなたのことではないんですよ!」
「俺以外に友達がいるのか!」
「いるに決まってますよ!」
「それはあれだな? もちろん俺のほうがより友達だよな?」
「部長は一番ただの知り合いに近い友達ですよ」
「部長は一番の友達……!?」
「発言を勝手に切り取るのをやめてください!」

誰か通報してくれないだろうか。なまえはそう祈りながら必死でドアを掴み続ける。しかしとうとう力が抜けてがく、と大きくドアが開かれた。「よし!」「よしじゃないんですよ一歩でも入ったら通報しますからね!? ちょっと聞いてるんで、」意気揚々と家主の了解のないまま部屋にあがろうとする大黒を止めようとするが、なまえは視界の端に今日約束していた友人の姿を捕らえてぴたりと止まる。「なまえ?」友人は何故か目を輝かせてなまえを見ている。なまえは嫌な予感で連鎖が組みあがって行くのを感じながら友人の肩を揺する。

「ああ、ごめん、あの人はあれだから、全然関係ない人だから、今帰ってもらうからちょっとま」
「その人彼氏?」
「違う。断じて違う。繰り返して、この人は彼氏ではない」
「でも、今家に入ってったけど」
「えっ!?」

振り返れば、大黒の姿はなまえの部屋の中に消えている。「ああもう!」好き勝手やりやがって、となまえも自分の家に駆けこんで、リビングの真ん中でぼうっと立ち尽くす大黒に声を荒げる。

「ちょっと! 勝手に家にあがんないでください!」
「……これは、大分すごいな」

すう、と大きく息を吸い込んで、ゆっくり吐き出し、また深く息を吸い込む、ということを数回。ラジオ体操でするように両手を広げて肺にできるだけ多くの空気を取り入れていた。
自分の部屋に大黒がいるというそれだけで、なまえは鳥肌が立つのだが、大黒はお構いなしで勝手に感動している。

「全方向から君の匂いがする……!」
「帰って下さいお願いですから!」
「それで、何をして遊ぶんだ?」
「遊びません! 本当に帰って下さい! さっきのが約束してた友達で、私は今日、あの子と遊ぶんですよ!」
「だが、その友人とやらは一向に入って来ないな?」
「えっ!? あれ!?」

まさかそんなとなまえは部屋を飛び出す。いない。靴がなかったから部屋の中にもいない。帰った? そんなことがあるのか? あの怪しい男と自分を二人きりにして? 混乱しながら姿を探していると、閉じたドアにメモが貼り付けてあるのを見つけた。メモにはこう書いてある。

『邪魔してゴメンネ! 二人で楽しんでね!』
「嘘!?」

メモを取り外してもう一度読む。『邪魔してゴメンネ! 二人で楽しんでね!』何度読んでもそう書いてある。裏面を見るがなにもない。紙は一枚しかない。逆さにしても意味はなさそうだ。『邪魔してゴメンネ! 二人で楽しんでね!』……嘘!?
そうこうしている間に部屋の中で勝手に動き回る音がして、なまえは急いでもう一度家の中へ戻った。

「なまえ!」

大黒はなまえを振り返ると、無邪気に笑ってキッチンのテーブルの上に並べられているものを指差す。「今日はこれで遊ぶんだろう?」ホットプレートとたこ焼き用の粉とソース。たこやキャベツは今から切ろうと思っていたので材料がずらりと並べてある状態だ。
きっと彼は、もう、実は自分は呼ばれていなかったと理解しているはずなのだけれど、部屋にあがってしまえばこっちのものだと、今日ははじめからこうする予定であったみたいに、道具や材料を手に取って楽し気にしている。

「これが噂のタコパか……! 友達っぽいな!」
「帰って下さい。通報しますよ」
「友達が友達の家に遊びに来て何が悪い!?」
「部長は間違いなく不審者です」

なまえが受話器に手をかける。躊躇いなく持ち上げたところで大黒が制止に入った。

「待て待て! なあ、そう思い切り拒否することはないだろう!?」
「なんでいけると思うんですか? アウトですよ」

なまえと大黒はしばらく見つめ合い、このままではまずいと思ったのだろう、大黒が声のトーンを落として言う。

「実はな、なまえ」
「うるさい。知りません」
「友達の家に来てこんなに楽しいのははじめてなんだ。たこ焼きパーティーもはじめてだしな。しかも相手は君だろう? これがはしゃがずにいられるか?」

情に訴えに来たな、となまえは身構えるのだが、大黒のはしゃぎようは確かに異常で、普段の大黒からは考えられない程に普通に心の底からはしゃいでいる様子ではあった。全部が全部嘘ではないのだろう。これ以上突破口を与えないようになまえはじっと押し黙る。

「そもそもたこ焼きがはじめてだな! 美味いのか?」
「……」
「そんな顔をされても俺は自分から帰るとは言わないぞ」

「絶対にだ!」大黒の宣言に、ついになまえは抵抗する気力を失い、適当なところでさっさと帰って貰う方が早そうだと思わされる。警察を呼んだとして、警察が丸め込まれたらより絶望する未来が見えた。

「わかりましたよ……。けど、食べたらすぐ帰って下さいね」
「そんな約束は」
「できないなら通報します」
「わかった! これ以上欲張るのはやめるから受話器を降ろせ!」

なまえはこれ以上構われたくなくて、大黒をリビングに追いやって下準備を開始した。「つまり、君がもてなしてくれると……?」胸を押さえて言う大黒は無視をして、キャベツを刻んだ。



本当に、にこりともしない。大黒はじっとなまえを観察していた。それどころか会話をする気もないようで、大抵の質問は無視をされるし、自分の話も聞いてくれているのかそうでないのかわからない。
ただ、たこ焼きに関する質問にだけは答えてくれるようだと探り出す。やはり、冷たくなりきれない彼女は結局大黒を追い出すことも諦めてしまって、やや殺気を放ちながらではあるがホットプレートを温めて、油を敷いてと忙しくしている。
ほとんど大黒の思惑通りに事は進み、大黒は普段とは違う服装のなまえを観察することに余念がない。今日のなまえは、コーヒーを極限までミルクで薄めたような白色の、ニット生地のワンピースを着ていた。ゆったりとしたシルエットなのだが、その薄い生地はなまえが体を捻ったり屈んだりする度に、彼女の胸やら腰のラインがきゅっと強調されて思わずごくりと喉を鳴らす。実際に肌が露出している箇所などほとんどないのに、動くと女性らしいシルエットが際立つ作りになっているのだろう。
あまり真剣に見つめているといつだかのように錯乱して襲い掛かってしまいそうで、テーブルの隅に置いてある食材を指さした。キムチやチーズがある。これらに彼女は触ろうとしないのが気になっていた。

「これは使わないのか?」
「いれる予定でしたけど、はじめてならない方がいいのかと思って」

なんでもないように言ったが、そういうのをもてなしている、と言うのではないだろうか。たこ焼きをはじめて食べると言ったから、スタンダードな方がいいのでは、と彼女が言っているのはそういうことだ。大黒は胸がきゅうきゅう鳴るのに耐えながら話を続ける。

「君はどうなんだ? 入っている方が好きなのか?」
「家で作るのは、その方が楽しいと思いますよ」
「君がそっちの方が好きなら、俺もそっちが食べたいが」

「はあ」となまえは興味がなさそうに返事をして。「じゃあ入れましょうか」彼女は、はた、と大黒と目を合わせて言った。

「辛いの食べられますか」
「……」

だからそれは。大黒はとうとう胸を押さえて大きく溜息を吐いた。わかっている。普段の言動や行動を見ていたら、好かれていないことはわかっている。常に面倒くさそうに大黒の相手をするくせに、一刻も早く帰れと言ったその口で、さらりと気を使ってみせるのである。そういうところだ。

「え、な、なんですか」
「君は、優しいんだ」
「なんなんですいきなり……」
「きみはやさしい……」

優しいなまえに付け込もうとしている。その優しさを公然と一人占めする権利が欲しいと願ってやまない。どんな方法でもいいから、なまえごと手に入れてしまいたい。「はあ」一杯一杯になって意識的に呼吸をすると、なまえは意味がわからないと眉間に皺を寄せていた。

「はあ……? で、食べれるんですか?」
「駄目だもう、今日はこれ以上優しくされたらおかしくなる……」
「部長はずっとおかしいですよ……」
「君のせいだぞ……」
「人のせいにしないでください」

「それで、キムチとかチーズとか嫌いじゃないんですね?」と、まだ言っている。「嫌いじゃない。嫌いじゃないからもうやめてくれ」「はあ? 食べないんです?」「食べる……」意味がわからん、とぼそりと言った声は聞こえていた。とにかく気分を変えようと大黒はなまえから竹串を受け取って見様見真似でたこ焼きを回した。
チーズの焼ける良い匂いがしてきた。
彼女は「そろそろいいかな……」とたこ焼きの具合を確かめている。帰らなければならない時間が近付いている。そう思うと、途端にどうにかして時間を引き延ばしてやろうという気持ちになってきた。彼女は優しいので、なんとかなるかもしれない。

「なまえ」
「なんですか」
「今日、彼女とはどういう予定だったんだ」

なまえは面倒くさそうに口を開いた。自暴自棄気味である。

「十時からここでたこ焼き焼いて、あとは映画とか観て、夜は適当にピザとか頼もうって予定でした」
「俺とも映画観ないか」
「観ません。絶対帰って貰いますから」
「待て、ひょっとして、彼女はここへ泊まって行く予定だったのか?」
「そうですけど」
「俺はここに泊めてくれないのか」
「泊めません。昼前には絶対帰って下さい」

「本当に通報しますから」と言われ、果たして警察というのはそんなに頼りになるものだろうかと考える。例えば大黒が、彼女を押さえ付けたら彼女は逃げられない。電話を壊してしまえば外部との連絡は取れなくなる。いいや、それ以前に、彼女は大黒とたこ焼きをつついている時点で詰んでいるのでは。

「思ったんだが」
「はい」
「一緒にタコパした男を警察は不審者と判断するだろうか?」
「……」

なまえは即座にホットプレートの電源を落として部屋から逃げるべく立ち上がった。自分の家であるという安心感が今、彼女の中から消え去った。大黒が先に、彼女の進行方向へ立ち塞がる。一定の距離を保って、なまえは大黒には近付かない。

「泊めてくれ」
「嫌です」
「何故」
「嫌だからです」
「だが君」

ドアを開ける開けないの攻防はあったし、通報するしないという駆け引きもあったけれど、例えば物を投げるだとか、包丁を振りまわしてみるだとか、そういう必死の抵抗は見られなかった。普段ならば、もっと全力で拒否して、逃げ回っているのに。

「今日は、あまり抵抗しなかったな?」

今だってそうだ。会議室でがむしゃらに抵抗していた時のほうが、ずっと威勢が良かった。大黒はなまえの体の横に手をついて、顔を近付ける。

「なあ、嫌ならもっと強く抵抗できるんじゃないか?」

ふう、と耳に息をかけられるくらいに近付いて、彼女の背に腕を回して、ゆるゆると力を込めていく。やはり、抵抗されない。彼女はまるで人形かなにかになってしまったように固まって動かない。

「本当に、嫌なら――」

改めて彼女の顔を確認する。何故、何の反応もないのだろう。ひょっとして、彼女は、強引に、こうやって触れられるのを待っていたのでは。

「っ……!」

なまえは顔を引きつらせて、握った拳をがくがくと震わせていた。顔は青いし、呼吸はは浅く、荒い。捕食者に睨まれて動けなくなった小動物のように、目の前のものに恐怖していた。「なまえ」名前を呼ぶ資格などないと理解していても、呼ばずにはいられない。なまえは大黒を怖がっている。付き飛ばしたり、殴ったり、そういう触れ合いすらも怖くて堪らないのだろう。「なまえ」なまえは応えない。腰を抜かして座り込んでしまった。立っていることもできなくなったようだ。大黒はこの期に及んでショックを受けた。自分がやらかしたことを一瞬忘れて、傷付けられたような気持ちになる。
誰がこんなことを、と無責任に逃避し、圧倒的に間違えてしまった日を思う。

「そうか」

抵抗しなかったのではない、なまえは、抵抗できなかった。

「……そうか」

ゆっくりとなまえから離れる。

「だが俺は、君を諦めてやることができない」

なまえはぼろぼろと涙を零しながら体を丸めた。大黒はただ、なまえに作った傷を癒すような何者かが現れてしまわないことだけを、強く、強く願った。



ほとんど口を利かずに、なまえは適当なタッパーにたこ焼きを詰めて、大黒に渡した。流石に、それ以上に粘っても逆効果だし、今日はもう理性的な会話は望めない。大人しくなまえの家を出て、それからしばらくふらふらと歩き、なまえの家を振り返る。
思い出すのは、なまえがくれた彼女の本質的な優しさと、なまえが大黒に向けた強烈な恐怖心。

「可哀想にな。俺が触れるだけであんな風になってしまっては」

好かれてはいない。好かれてはいないが、なまえにとって大黒は、間違いなく特別な存在になっていた。口角が上がるのを隠す様に、手のひらで口を押さえる。「可哀想に」可哀想に。「彼女はもう」元のなまえみょうじには戻れない。

「一生、俺を忘れられないだろうな」

「ハハハハ……!」かわいそうに。かわいそうに。かわいそうに! 込み上げる笑いはなかなか収まらなかったが、「辛いの食べられますか」と言った彼女の事を思い出すと、あるいは、はじめて会った時に貰ったクッキーの味を思い出すと、ちくり、と、胸が痛んだ。
これを、気のせいだと無視して笑い飛ばすことはできる。「ハハハ……」どんな形であれ彼女にとっての唯一になれば同じことだと信じることはできる。これこそが欲しかったのだと、悦に入ることはできる。
できる。ここまで来たら。来てしまったら、その方が楽であることも理解していた。けれど。「違うな。これは、違う」大黒は、その胸の痛みを受け入れる。怖がられたくはない。泣かせたくもない。彼女に刻んだものは重くて大きいけれど。

「……そんなものじゃ、全然、足りないさ」

俺が欲しいのは、もっと、さり気なくて、ささいなものだ。


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20210119:次はバレンタイン編かもしれないしそうじゃないかもしれない。

 

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