関係改善大作戦・前編


なまえがきっちりと整理された書類の束を大黒に手渡した。

「確認お願いします」
「ああ……」

部下が上司に書類の確認を頼む。なんてことはない光景だが、なまえのことをよく知る人間が見れば、何か大変なことが起こっているように見えた。いまいち書類に集中しきれない大黒だけでなく、他の同僚もちらちらとなまえの方を気にしている。なまえはやや鬱陶しそうに髪を触りながら「なんですか」と言った。抑揚のない、淡々とした声である。これに、大黒と、他の同僚達も一様にびくりとする。
彼女は、こんな声を出せたのか。あるいは、あんなに冷たい表情ができたのか。

「あー、なまえ、あとでちょっと話があるんだが、会議室、」
「会議室には絶対行きません」

なまえはきっぱりと言い、更に繰り返した。

「絶対に、行きません」

大黒は笑顔をひくつかせながら、なまえからの感情の籠らない視線に耐えていた。なまえは大黒がなまえに対して開き直ったあの日から、ずっとこの調子である。大黒の前ではにこりともしないし、余計な話は一切しない。無難に天気の話でもしようものなら聞こえなかったフリで無視をされるという有様だった。
大黒としてはこの状況をなんとか打開したくてたまらず、今日もどうにか彼女と話し合いの場を設けられないかと必死になっている。

「わかった。なら、どこならいい」
「その前に、それ、必要な要件ですか?」
「必要だ」
「仕事に?」
「そうだ。仕事に必要だ」
「もし必要じゃなかったら理由もなく一週間くらい会社休みますけどいいですか」
「仕事には必要じゃないんだが俺には必要だ」
「そうですか。ならきっとどうでもいいようなことですね」
「必要だって言っているだろう!?」

思わず、周囲にまで聞こえる音量で言ってしまったが、なまえには届かず、彼女はそのまま「じゃあ書類お願いします」と自分の席へと去って行った。まさかここで追いかけるわけにもいかない。そもそも、勤務時間中はお互いにそうそう暇はしていない。新しいプロジェクトも始まっていて、休日出勤の必要がある週もあるくらいだ。そんな時に、なまえを追いかけまわして余計に好感度を下げるようなことは。

「……まあ、好感度など、ないわけだが」

言ってしまってから後悔した。わかりきった事実を自分自身に聞かせてどうする。そんなことをしていないで、どうにか二人きりになる方法を考えろ。



なまえはぱたんと自席のノートパソコンを閉じて、腕を大きく頭上に伸ばして体を伸ばした。まだちらほらと仕事をしている同僚は居たがここまでやればきっと大丈夫だろう。今日は水曜日で、あと二日あれば残りは終わる。土曜日までの見通しを改めて立ててから挨拶をして席を離れる。友人と約束があるので今週は絶対に休みたい。
本当は先週の約束だったのだが、先週は用もないのに「緊急事態だ」と大黒に会社に呼び出され(食事に誘われた。もちろん断ってそのまま帰った)、遊びの約束は一週間延期してもらった。今週は本当に緊急事態だったとしても絶対に出勤しない。絶対にだ。どこかのタイミングで釘を刺しておきたいところだが。考えながら会社を出ると、出入り口を塞ぐように停まっている車にもたれる人影を見つけて、なまえは思わず嫌悪の声がそのまま漏れた。

「うわ」
「……送って行くから、そんな顔しないでくれ」

人差し指に車のキーを引っ掛けて、助手席のドアを開けようとする大黒から距離を取った。こうして距離を取ったり睨み付けたりする度に大黒は傷付いたようにその事実を確認しては固まっているが、なまえは自分の体をぎゅっと抱きしめて、どうにか冷静であろうと努める。

「送る? 車で?」
「そうだが」
「絶対に乗りません」
「別に俺は」
「乗りません。絶対に」

大黒と二人きりになる。それどころか、なまえは例のあの日以来、大黒でなくとも男性と二人きりになるだけで冷や汗が止まらなくなり動悸がして、大変に苦しくなる。一過性のもので、時間が経てば緩和されると思うのだが、とにかく(特に大黒とは)一定の距離を保っていないと怖くて堪らない。

「わかった……、ならそこで時間をくれ。少し冷えるが、閉鎖空間じゃないからいいだろう?」

そこ、と大黒が指示したのはなんでもない、会社の入口付近の壁際で、ベンチも自動販売機もないような場所だった。定時を一時間過ぎているが、出入口の近くなので、ぽつぽつと人通りがある。
応じたとして、返す言葉は決まっている。聞かなかったことにして、そのまま帰ろうとするが、大黒に進行方向を塞がれた。車があるせいで、容易に道を塞がれてしまう。なんて迷惑な。掴まって無理矢理車に詰め込まれる、というのも恐ろしい話だ。なまえは仕方なく、大黒が示した場所へ移動した。

「なんですか?」
「なあ、なまえ」
「はい」
「君、なんで俺にそんなに冷たいんだ」
「別に、普通です」

「普通……?」なんで、冷たくされないと思うのか、なまえはさっぱりわからない。むしろ、普通に業務をこなしていることを褒めて欲しいくらいだ。これ以上にどうしろというのか。なまえが溜息を吐く準備をしながら、大黒の動向に気を配っていると、彼は大袈裟に言った。

「いいや! 少し前まではにっこり笑って書類を渡してくれていただろう! それがなんだ! 今は黒野よりも淡々としているじゃないか! 同僚たちも不審がっているだろう!? 元に戻してくれ!」
「部長を前にすると最近自然とこういう顔になるんですよ」

用意していた息を吐きだした。
大黒が一歩近づいて来たのを見て、なまえは三歩ほど距離を取った。五メートルは離れている。なまえの気持ちとしてはこの倍は離れたい(さらに言えば一秒でも早く逃げたい)のだけれど、ただでさえ阿呆みたいな話をしているのに、この上十メートル離れていたら見世物にしかならない。注目を集めたいわけではないので、どうにかこの距離で踏みとどまっている。

「笑ってくれ」
「無理です。それでは」
「できるだろう!? ちょっと愛想笑いをしてくれるだけでいい」
「嫌です」
「最悪あいつらに向けるのと同じでいい!」
「いや、皆に失礼ですよそれは」
「俺の評価!」

大黒はカッと叫んだ後に「なあ」となまえに手を伸ばそうとした。なまえはそれを見るなり鞄を肩にひっかけ直して走り出す。「お先に失礼します!」最低限のことはしている。これ以上を求められても迷惑だ。

「待て! 頼む! 俺にも愛想笑いをしてくれ!」

愛想笑いでいいところに、正確な状況判断能力みたいなものを感じたけれど、そのまま走って逃げた。実はあの日から何が起きても逃げられるように練習とイメージトレーニングに余念がない。



わかっている。状況分析には今度こそ間違いがない。元々相性はいいのだからと言い聞かせながら業務連絡にやってくるなまえにさも重要な用がある風を装って立ち止まらせる。「これを見てくれ」と、紙切れをぎゅっと手の中に握り込み、彼女の前でパッと開く。手のひらには、ちょこんと青色の飴玉が乗っている。

「どうだ?」
「……あ?」
「氷点下! そんなに腹立たしかったか!?」
「はい」

今にも舌打ちしそうなしかめっ面に、大黒だけでなく同僚達もざわついている。しかし、なまえのこの態度は大黒に対してだけだ。恐る恐るなまえに話し掛ける同僚は自分に向けられるなまえの声音と表情が自分の知っている通りであることに安堵している。「……」その代わりに大黒から殺意と粘着質な嫉妬の視線を受けることになっていたが、大黒が部下を省みないのは今にはじまったことではない。
あの日以来、長い謝罪文をしたためて渡してみたり(「読まなきゃいけませんか」と言われ「読みたくなければ捨ててもいい」と強がったら捨てられた)、気持ちを込めてプレゼントを持って来たり(手を付けてさえくれなかった)、早くに出社して彼女のデスクだけをピカピカに磨いてみたり(アルコールスプレーで隅から隅まで消毒された。何故)、その他思いつく限りのことをしてみたが、なまえは迷惑がるばかりで一向に微笑んでくれることはなかった。
それに比べて大黒の部下はなまえに挨拶をするだけで微笑まれているのだからこれは一体どういうことか。羨ましい。
羨ましいが、睨み付けていても変わらない。仕事をしながら、次は何をしてみるべきだろうかと考える。今日なまえから受け取った書類は、一度家に持ち帰ったのだろうか、紙から、微かに彼女の香りがした。ほっとする、優しい香りがする。こんなにおいをさせておいて、あんな氷のような顔をするのだから、気を引き締めていないと変な扉を開いてしまいそうになる。とは言っても、例えば手紙を捨てる時だとか、プレゼントを突っぱねる時だとか、そういう時の彼女は、冷たいだけのものにはなりきれず、一瞬、申し訳なさそうな顔をする。元々優しい性格なのに、慣れないことをするからそうなる。そういうところは付け込めるだろうと大黒は考えていて、大事なのは回数だろうと思ってもいる。
時間の問題だ。彼女は絶対にいつか折れる。しょうがない。気力がもたなくなってそう思う日が来る。まあいいか。拒絶し続けることに疲れてしまう日が、必ず。
だからと言って、なまえと親しくする人間は全て死ねばいいとは思うのは変わらないが!「部長」

「ん!? ど、どうした」
「すいません、部長。言い忘れてて」

なまえは一体なにを思い出しているのか、苦い表情で「明日なんですけど」と切り出した。明日は土曜日だ。

「明日は、何を言われても出勤しないのでよろしくお願いします」
「なにかあるのか?」
「予定が。友達と、十時から」

彼女はそれだけ言うと自席に戻って行った。友達と、十時から。彼女の声が頭の中で繰り返される。休日に会えるだなんて夢の様な話だ。自分にとっては夢のまた夢の話である。溜息を隠すように長く細く息を吐き出す。友達と十時から。また、彼女の言葉が脳内で繰り返される。単語だけの簡素な答えで。ん? 友達と、十時から……? 待て。友達と十時から。友達と。予定が。待て待て待て。今のは。いやそうに違いない。それ以外にはあり得ない! なんと言っても――。
――俺と彼女は友達だからな!



「な、なんで……?」

何故。どうして。一体全体なにが起こったというのか。何故。なまえは泣きそうになりながら必死に考える。
何故、大黒が、花束を抱えて玄関先に立っているのだろう。


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後半に続くぞ!

 

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