罪状:抱えきれない程の優しさ15-2


碌なことはない。両腕に出来たロープの痕を眺めながら思った。
この世界はクソだ。



目が覚めると、なまえの家で、ああ、また戻って来られたんだと思ったら、水を引っ掛けられて現実に引き戻された。夢だったのか、と起き上がると、なまえの声がしたような気がして振り返る。「大丈夫?」大丈夫であるはずがない。眼を閉じて、なまえに寄り掛かったつもりだったのに、やけに冷たくて硬いものにぶつかる。地下の石壁に頭を擦りつけていることに気付いて、壁から離れると額に怪我が出来ていないことを確認した。「52」声がした。確かになまえの声だと思うのに、目の前には暗くて冷たい地下室が広がっているだけで。
しばらくぼうっとその場に立ち尽くして、ようやく、こちらは俺の元居た世界だと気が付く。夢を見ているのか、本当にあちらに行っているのかわからない。俺はどちらにいるのか。何度も何度も自問自答して世界に触れて確認して、ようやく判断がつく。

「……今日は、なまえの部屋じゃない」

今でこそ少し冷静に自分を見つめられるが、少し前までこうなるとひどく暴れていて、なまえの部屋であれば、散々部屋にあるものを壊して、地下であれば暗部の連中にぶん殴られて正気に戻る。
日常生活もままならない。俺はいつ現れて消えるかわからないものになり果てて、なまえはそんな俺にただ振り回されている。放っておけばいいのに、あいつにはそれができないらしい。

「なら、俺が、離れればいいだろ……」

それができないのは。

「クソ、なんで……、どうして、俺は……ッ!」

こんな思いをしても、こんな目にあっても。俺はなまえに会う度に縋る様に抱き締めてしまう。連れて行きたい。あるいは、ここに繋ぎとめて欲しい。離れたくない。けれど、そのどちらも叶わない。叶ってはいけない。俺がなまえを連れて来れても、処分されておしまいだろうし、俺がここにいることだって、いつか大きな騒ぎになるかもしれない。だから駄目だ。離れて、それぞれの世界を生きることが、俺達にとって一番良いことだ。
それしかない。
突然出会ってしまったものは、突然別れがやってくる。はじめからわかっていたのに。
頭を掻きむしって叫ぶ。
どうして。
どうして。
どうして。

この世界はこんなにもクソなんだ――。



最近の彼は、もう、この部屋に来ても何かをしようとはせずに、ベッドの上で静かにしている。私とも、あまり話をしたくない様子だ。そういう時は無理に話をせずにずっと隣にいるようにしていたのだけれど、いつの間にか、放っておく、ということが随分苦手になった。駄目かもしれない、と思いながらも声をかける。

「52、今日はハンバーグ作ってあるんだけど、食べない?」
「お前のだろ。いらない」

彼がこちらに居られる時間はもう数時間程度しかない。だから彼はもう、こちらのものには触れようともしない。触れたくないわけではないことくらいは、私にもわかる。とは言え、52がどちらの方が楽なのかは、私にはわかりようがない。少しでも苦しくなければいいと願うのに、それすらも、押し付けなのではないかと思ってしまう。努めて明るい声を出すのも、彼には鬱陶しいことでしかないのでは。

「ちゃんと二人分あるよ。いつ戻って来ても大丈夫なように、いつも」
「は?」

52は体を起こして、私の肩を掴んで揺すった。間違えてしまったかもしれないとは思いながらも、やっぱり私にできることは、彼の言う平和な世界の住民らしく、笑ってみせることしかない。私を掴む52の手が震えている。寒くて、だろうか。それとも、怖いとか、何か別の感情があるのだろうか。

「なんで、そんなことしてるんだ」
「だから、いつ、ここに来てもいいように」
「お前は……ッ!」

52は重荷に思うかもしれない。きっと重く感じるだろう。追いつめられて疲れきっている彼には酷なことかもしれない。わかっていたが、しかし、想像してしまう。ここに来た時、荷物が全て片付けられていたらどう思うか。誰もいないみたいに扱われたらどう思うか。
想像すると、重かろうがなんだろうが、やらずにはいられない。

「ばかなんじゃないのか。無駄だろ、時間も、なにもかも」
「食べ物を捨てたりはしてないから、大丈夫」
「そんな話してねェよ!」

聞いたことがないくらいに大きな声は、荒く掠れてしまっている。大きく開いた目の虹彩が揺らめく。

「うん。そうだね」

彼が怖くないように手を伸ばして、抱きしめる。こうしていると少しだけ、本当に少し安心するらしく、52は大人しく腕の中に居て、そしてやがて、あちらの世界に帰ってしまう。その後私が途方に暮れて子供みたいに泣く姿は、あまり想像して欲しくない。

「なら、そうだな。折角一緒にいられるんだから、何か52のやりたいことをしようよ。なんでもいいよ」

あくまで、私は、能天気な言葉を続ける。
52は顔を上げて、その顔は、怒っているようにも、驚いているようにも見えた。

「なんでも……?」
「うん。なんでも」

無責任なんじゃないか、と私の中の誰かが言う。なんでもはできない。助けて欲しいと言われたら、私はどうするのだろうか。じっと52を見守っていると、彼は「はっ」と乾いた声で笑って、私をベッドに倒し、腕を掴んで、強く押し付けた。

「なら、俺が」

彼は優しい。

「お前を抱きたいって言ったら」

だから、私にできないことは提案しない。

「いいよ」

私は52の頭を撫でながら、彼と出会って今日までのことを思い出していた。
地味で冴えない、自分のことをすっかり諦めてしまったような生き方をしていた私のところに来てくれて、君のおかげで私がどれだけ、毎日を生きることが楽しくなったか。傍目から見たって私の有り様は変化していて、何度褒められたか。実は告白だってされたりして。でも、その時真っ先に考えたのは52のことだった。52。ねえ、52。

「いいよ。そうしたいなら、好きなようにしたらいい」

腕にも体にも力は入っていない。服だって脱がそうと思えばすぐに脱がせるだろう。触りたい場所を触れるはずだ。そうしてくれてもいい。けれど52は、一向に私に触れることはせずに、私の上で、苦しそうに私を見つめて。

「いいわけないだろ……!」

大声で、泣き、叫ぶ。

「好きだ」

涙は流しっぱなしで、私の顔にぽたりぽたりと落ちて来る。私の涙と合わさって、倍の速度で頬を滑っていく。

「俺はここに居たいのに」

私はそうっと52の肩に触れる。今は触れられる。そこにいる。今にもいなくなってしまうかもしれない男の子が、この世界が惜しいと、泣いてくれている。

「もう二度と会えないなんて、そんなの嫌だ」

出会った頃を思わせる、パサついた髪の毛を丁寧に梳いて、抱き寄せる。52もしゃくりあげながら、必死に私に腕を回した。「嫌なんだ」「俺は」「ここに」「もっとここで」押し込まれていた感情が、涙と一緒に溢れている。繰り返し、繰り返し「嫌だ」と言い続けている。鼻をすすって、声が高く掠れて。「なまえ、俺は」

「大丈夫」

涙で濡れた頬同士をくっつけて、彼にちゃんと聞こえるようにしっかりと言う。

「今度は私が会いに行くよ」

身体を少し離して、お互いの表情を確認する。私は微かに笑っていたが、52は耐えるようにきゅっと口を引き結んだ。そして力なく首を振る。

「……そんなの、無理だ」
「大丈夫。無理じゃない」
「絶対に、む、」

否定し続ける口を唇で塞いで、今度は私が、私の持っている力の全部で彼を抱きしめる。

「無理じゃない。大丈夫」

私の中にも湧き上がりそうになる否定的な声は全て聞かないフリで、自信満々に言い放つ。そもそも、あり得ないことはもう起こっている。ならば、次は逆のことが起こらないと、一体誰に証明できるだろうか。

「私が絶対に、52を見つける」

いつか終わりがくるとわかっていたし、覚悟もしていた。二度と会えなくなる瞬間は必ずくる。そういう前提で一緒に居た。しばらくは泣くだろうか、なんて他人事のように考えた。それで終わりにしようとしていた。けれど、52にこんな風に泣かれたら、言えるわけがない。さよなら、なんて、言えるわけが。「ほら、」

「私、52を見つけるの、得意だったでしょう」

52はそれ以上私の言葉を否定しなかった。大人しく抱き締められていたが、その内もぞりと動いて私の額と自分の額とをこつりとぶつける。押し付けられると少し痛い。

「……なまえ」
「なあに、52」
「今の、もう一回しよう」
「ああ、いいよ」

泣き過ぎだ。唇が塩辛くなっている。
それが面白くて顔を見合わせてくすりと笑った。

「もう一回」
「ん」

角度を変えて何度かキスをした。私が52の唇を軽く自分の唇で挟むと、彼も真似をして同じことをやっていた。必死に唇を合わせる52がいつ消えてしまうか怖くて時々目を開けていたせいで、首元に大きな痣があるのを見つけてしまった。痣がある。52が向こうの世界で作ってきた痣。

「52」

私は彼を呼んで、右腕の服の袖を大きく捲り上げる。切り傷や擦り傷が痛々しい。その腕を引き寄せて、肘の内側、少し上のあたりに唇を寄せて、強く吸う。これなら、彼が彼の世界に帰っても、あるいは。

「絶対に、また会おう」
「なまえ、」

その先に続いたはずの言葉は聞けなくて、それから、二度と、52が私の家に現れることはなかった。


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20210101
11月編、終わり。次が最後のお話です。

 

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