世界の終わり/黒野


「貴方も暇ですねえ!?」
「お前は弱いな」

なまえは黒野の右手に握られている一枚の紙に手を伸ばす。黒野はなまえが伸ばした分だけ腕を上げ、彼女の手のひらを避ける。
オフィスで、人目があるなかぴょんぴょんと跳ねて書類を取り返そうとする彼女が憐れで口角があがる。黒野はひとしきりそうして遊んでいると、徐に時間を確認して、彼女の顔に書類を叩きつけるようにして去っていった。「ぶっ」

「めんどくせえ人だなホントに……」

なまえは、黒野の背を見もせずに、顔からひらりと落ちた書類を拾い上げた。
優一郎黒野はほとんど毎日、なまえで遊びにやってくる。今日は書類を奪われた。昨日は単純に追いかけ回され、一昨日は印鑑を隠された。廊下ですれ違った時わざとぶつかってこられたり、スカートを捲られたこともあった。それは流石に上に咎められていたが、本当に毎日、飽きもせず、黒野はなまえのところにやってきては、彼女をいじめて、時に満足そうに、時に不満そうに自分の仕事に戻るのだった。

「はあ……」

日に日に重くなるため息、現状に慣れきっている周囲。転職の二文字と優一郎黒野はなまえの中で常に隣合っている。

「どうした? 廊下の真ん中で溜息なんて吐いて」

幸せが逃げるぞ。なまえは驚いて背筋を伸ばしながら声のした方へ振り返る。言葉や声から誰に話しかけられたのかはもうわかっていた。振り向くと同時に言う。

「大黒部長!」
「ああ。大黒部長だ!」

大黒はなまえの声のトーンに合わせて、にっと笑みを深めた。底の知れない、感情の読めない笑顔ではあるが、今は、確かになまえの調子に合わせた。目的は、なまえにはわからない。

「また黒野にいじめられていたのか?」
「まあ、実験対象の子供たちに比べたら全然いじめってほどでもないですよ」
「困っていないのか?」
「うーん……困って無くはないですけどね……」

殴られたり蹴られたり、ぶっ飛ばされたりしたことは無い。足を引っ掛けられたことはあるが、その時なまえは顔から倒れ、廊下一面を血の海にした。これは流石に各方面から怒られていた。会社に迷惑がかかる規模のハラスメントは止せと言うところで、黒野はそれ以来(一応)血は出ないように気を付けているらしかった。
怪我をするようないじめなら助けも求めやすいが、書類を取り上げられたとか、小学生がするようなレベルの嫌がらせを騒ぎ立てるのもなんだかな、と、なまえはただ曖昧に笑うしかない。「大丈夫です」

「それならいいが」
「ありがとうございます。そんなことより、大黒部長。これ、この間のお礼です」
「ああ」

「君は律儀だな」大黒はなまえが差し出した深い緑色の紙袋を受け取った。中身は焼き菓子の詰め合わせだ。大黒はその洋菓子店を知らなかったが、なまえは自信満々に胸を張る。

「私のおすすめです。よかったら食べてみてください」
「君のおすすめは間違いがないからな。有難く試させてもらう」
「はい」

この人がいなければ、とっくに転職しているだろうな。と、なまえは菓子を渡せたことに満足して、ほっと柔らかく微笑んだ。



大黒はなまえを気に入っていて、なまえも大黒に懐いている。そして黒野は。

「彼女にすすめられた焼き菓子でも食うか? 美味いぞ」

ここで「頂きます」と、言っても貰えないことはもう学習している。故に「いりません」と首を振ってその話を終わらせた。

「そうか」

そもそも、大黒がなまえから菓子を貰おうが何をしようが、黒野にはあまり関係がない。誰が誰の気に入りだとか、そういうことも関係がない。だと言うのに、大黒は必ず、なまえと何かあると、黒野に隅から隅まで説明する。黒野は仕方が無いのでそれを聞いているのだが、聞けば聞くほど、気分が悪くなる。

「お前達の方がよく話をしているのにな」

だが、今日は運が良かった。話を聞かされるよりも、もっと気分が悪くなる時がある。大黒となまえが談笑しているところを見てしまうと、見ている間は何も考えることができないくらいに、吐き気がする。

「まあ、仕方がないか。俺と彼女は特別仲が良いからな」

ハッハッハ、と笑う大黒をじっと見下ろす。手には、なまえから貰ったという焼き菓子だ。わざと見せつけるようにして、大黒はそれを口の中に放り込んだ。



いつものようになまえの横に足をついて追いつめる。逃げられない様にしてから出社してきたばかりのなまえの鞄をひったくり、そのままそこにひっくり返した。大したものは入っていない。財布に水筒、携帯電話に手帖。ポーチ。それから書類がいくつか。何かないかと手を突っ込むと小さなボトルのチョコレートが引っかかっていた。「あ」しまった、と言うような声がした。

「なんだ?」
「なんでもないです」
「これはなんだ、と聞いている」
「別に、チョコレートですよ。ただの」
「そういう反応じゃなかっただろう。弱いくせに隠し立てする気か」
「大黒部長に貰ったチョコレートですよ」

「大黒部長に」黒野はそう聞いた瞬間にビンごとチョコレートを灰にしていた。「あっ」今度は怒ったような声だった。

「何も入っていないな」
「入ってたけど貴方が燃やしたんですよ」
「菓子はないのか?」
「お菓子?」
「昨日は持っていただろう」
「ああ……、あんなもの、毎日持ってるわけないじゃないですか。昨日は部長にあげようと思って持ってきてただけですよ」

「部長に」今度は壊すものがない。鞄をその辺にべしゃりと放り投げて、なまえの顔を掴んだ。外を歩いて来たせいで、頬がひんやりとしている。「なにすんですか」なまえは弱弱しく抵抗した。黒野は止まらない。この際菓子でなくとも、何かを口にできればそれで良い。口を開けてなまえに噛みつく。「いっ」噛みやすいように頭を両手で動かして、首筋を露出させた。口を離すと、早速赤くなっている。

「このっ、離してください!」
「離してやる義理はない」

道理はあるのかもしれない。しかし、あまりにも気分が悪いのでもう一度噛みついた。ぎゅっと唇を合わせてから、柔らかそうな唇に歯を立てようとした。八重歯の先になまえのぷっくりとした唇が食い込んだ時、逆に、なまえに唇を思い切り噛まれた。
油断していた。唇からたらりと血が垂れる。なまえは何も言わずに黒野から離れて、鞄の中に落ちた荷物を突っ込んでさっさと立ち去ろうとした。

「これじゃない」

その進行方向へ回り込んで、なまえの肩を掴む。なまえは避けようとしたが、黒野には軽く身を捩った程度にしか見えなかった。簡単に捕まえられる。腕の中に閉じ込めておくこともできる。

「これじゃない」
「なに言ってるんです」
「違う」

映像が、爆ぜるように脳裏を過る。どれもこれも、自分ではない誰かに微笑みかけている絵だ。その笑顔が黒野に向いたことは一度もなければ、なまえに何かを貰ったこともない。走馬灯のように頭の中でなまえの、これはおそらく黒野の欲しいものなのだろう。黒野にはしないなまえの笑い顔がいくつも、いくつも浮かんでは積みあがっていく。
両肩を掴む、指先がぎちぎちと音を立てている。

「俺が欲しいのは」

もっとあたたかくて、柔らかくて。


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20201223
ユウイチロウクロノ絶望的な片想い拗らせて欲しすぎて無限に書いてしまう…

 

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