マイナスから/大黒


偶然衝撃的な瞬間に居合わせる、ということはある。
正確には、様子を伺っていたら、うっかり、聞いてしまった。

「みょうじさん。この書類、大黒部長のところまで持って行ってくれないか」

彼女はその頼みを「ああ、はい」と快諾したが、頼んだ相手がどこかへ行ってしまうと重く長い溜息を吐いた。悩み事かと身を乗り出したその時だ。

「大黒部長か……嫌だな……」

……灰島重工に大黒部長は、俺しかいない。



変なタイミングだった。思い当たることがなにもない。だから、ろくなことではないだろう。俺のその予測は当たっていた。
大黒部長は俺を前にするなり深刻な顔でなまえみょうじに自分はどうやら嫌われているらしい、という話をしはじめた。「心当たりがなさすぎる。彼女は噂で他人を判断するような人間ではないはずだ」ならば一体どうして。「顔が気に入らないんじゃないですか」と、言ってやろうかと口を開くと、バン、と机を叩いて遮ってきた。

「何故だ……!?」
「知りませんが」
「いつの間に俺は、彼女に嫌われた?」
「知りませんが」
「全力の溜息、果ては心底からこぼれ出る嫌悪の言葉……、俺は彼女に一体なにをした?」
「知りません」
「何もしていないはずだ。クリスマスに意中の女性にこっぴどく振られたことにして同情を誘い飲みに付き合ってもらおうと思っていただけなのに、一体、何故?」
「……その理由、軽蔑されませんか。断られてすぐに別の女なんて」

そんなことを言う大黒部長を前にしてなまえが困り果てる顔が目に浮かぶようだった。いかなる理由があろうとも彼女はクリスマスの夜に部長と飲みに行くことはない。断られる未来が見えていないらしい部長が胸を張って作戦内容を開示する。

「その日はそんな雰囲気を出すつもりはない! 仲良くなるには丁度いいだろう。俺の完璧でないところをみせて、親近感を持ってもらおうと思ってな!」
「いや、たぶん、あいつは」
「お前、さっきからあいつあいつと馴れ馴れしくないか?」
「あいつはあいつですから」

部長よりも付き合いは長い。それなりに仲良くもしているから、あいつのことはそれなりに理解している。だからこそ、大黒部長は俺をこうして呼び出して、これからの自分の身の振り方を考えたいのだろう。

「まあいい。何か聞いてないか」
「如何に部長が嫌いかって話ですか」
「嫌われていない」
「いや、」
「嫌われていない」

無理がある。あまりにも無理があるので、俺はついうっかりこの人が聞きたいであろう情報を話してしまった。

「気持ち悪いって言ってましたよ」
「なんだと?」
「気持ち悪いそうです」
「は?」
「気持ち悪い」
「三度も言うな。聞こえている」

「……聞こえている」部長は噛み締めるように繰り返した。聞こえているのならもう言う必要はないだろう。「一体どこが」適当なことを言っても良かったが、彼女の言葉をそのまま伝えるのが一番苦しむことになるだろうと判断した。

「体に、よく触れられると」

大黒部長は「体に……?」と首をひねり、なまえとの記憶の入った箱をひっくり返して彼女の言葉と照らし合わせているようだ。部長のことなので、おそらく出会った時から今日までの記憶を全て思い出している。結果、意味が分からないと首を振った。

「触ったことなんかないが」
「なんで嘘を吐くんですか」
「触ったことなんかあるわけないだろう! 俺の片想いだぞ! 知ってるだろうが!」
「いや、あるでしょう」

あるはずだ。部長は何故「ない」と言い切っているのか知らないが、俺だって見たことがある。なまえはそれが嫌で嫌で堪らない、と語っていた。できるだけ避けようと思うのだが、いつも知らない間に距離を詰められている、と。

「廊下とか、棚の前とか」
「……あれは触った内に入らない!」

「ちょっと失礼」だとか「悪いな」だとか、そんな言葉をかけながら、あるいは、かけずに押しのけるように触れられる。最初は道を塞いでしまって悪かったな、と思ったなまえだったが、二回目、三回目ともなると、だんだん気持ちが悪くなってきたそうだ。しかも、触れられる時は決まって。

「手のひらじゃないしな!」

なんの気使いか手の甲を使っていたという。そこがまた絶妙に気持ちが悪い、と彼女は心底嫌がっていた。

「声かけてくれれば済む話なのに、と気持ち悪がってましたよ。人を退かすためにいちいち触ってくるのはなんなんだ、と」

部長は俺の言葉を彼女の言葉であると判断して、頭を抱えて机に突っ伏している。「そんなことが……そんなことで……」その程度のことで、とは言うがなまえに「気持ち悪い」「嫌だ」と言われるなんて相当だ。「これは、取り返せるのか……?」もう無理だ。さっさと諦めてしまえばいいのに。

「もういいですか」
「まだだ。というかお前、知っているくせに出し惜しみしやがって。まだ何か隠しているだろう。吐け」

隠していることなどないが、折角だから部長のそのクリスマスの予定を切り裂いておくかと口を開く。ショックで死んだりしないだろうか。

「クリスマスの夜は、俺と予定があります」

部長がよく意味のわからない計画を立てている間に、なまえの予定は埋まっている。いくらなまえが病的なお人よしであるとは言え、先約を断ってまで部長に付き合うことは絶対にない。

「お前たち……そういう仲だったのか……?」

部長は満身創痍でそう言った。そういう仲、とはつまり、恋人同士かどうか、ということだろうか。まだ明確にそうではないが、わざわざ否定することもないと既に確定している真実だけを押しておく。

「予定があるので」
「よしわかった。クリスマスあたりは重点的に仕事を回してやろう」
「いいんですか」
「なにがだ」
「俺は、あいつに、部長に仕事を押し付けられた、と、言いますよ」
「今日は嫌につついてくるじゃないか」

部長は立ち上がって挑むように俺を見た。いや、部長は大抵こんな表情だが、若干余裕がないだろうか。

「それでもよければ、どうぞ」
「いい度胸だ。そうでなければ灰島の社員は勤まらん」

部長は既にマイナスからのスタートだ。この件に関しては、部長に勝ち目はない。
クリスマスも、「なんで恋人でもない男と?」と渋るなまえを三か月前から誘い続けてようやく約束を取り付けたのだ。どれだけ残業があったとしても一緒にケーキを食べると、そういう約束だ。俺は、なまえがなにに弱いか、よく知っている。
だから、負けるはずはない。


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20201213

 

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