「さよなら」だけは聞きたくない


疲れた。男装というのは特に疲れる。声も変えているし、胸も思い切り潰しているから常に苦しい。これならばまだ思い切り派手なドレスを着て、猫なで声を出しているほうが。いや、どっちもどっちか。人に見られないように地下に潜って、秘密基地につくまでに歩きながら情報をまとめた。早く着替えたい。
秘密基地の扉を開けると、まずはリヒトくんが「おかえり」と言ってくれた。「お疲れ様」とも。「ただいま」と返した声が低くって、私は咳払いをしてから言い直した。「ただいま」今度はいつもの私の声だった。
リヒトくんは「相変わらずすごい特技だね」と言いながら、私の体を頭からつま先まで見て「けがはなさそう?」と健康状態まで気にしてくれた。「大丈夫」

「ここに情報まとめたから、先にシャワー浴びて着替えてきていい?」
「うん。いいよ。というか、是非そうして。怪我はなくてもあんまり調子よさそうじゃないし」

「なんなら寝ててもいいよ」とまで言われてしまったが「ありがとう、でも大丈夫」と首を振った。やらなければならないことはたくさんある。具体的に言うと、勤め先に明日提出する書類の用意だとか、メールが来ていた気がするのでそれの内容をチェックすることだとか。スーツのアイロンがけだとか。買い出しもそろそろしなければいけないはず。溜息を吐きそうになるが、ぐっと耐えた。
服を脱いでサラシを解いて、頭から熱いシャワーを浴びると、ようやく少し落ち着いた。リヒトくんは気を使ってくれたが、この程度で根を上げていてはいけない。さっと体を洗ってしまうときゅっとシャワーのお湯を止めた。ここの掃除もそろそろしたいなあ。

「よう」

脱衣所に戻ると、煙草をふかしながらジョーカーが立っていた。そこにいるのが当然、という顔をしているが、登場の仕方が明らかにおかしい。出てって欲しい。なんでいるのか。ただいま。そもそも一発ぶん殴るべき? 考えている間にどうでもよくなって、タオルを掴んで体を拭く。「趣味が悪いよ。ジョーカー」新しい下着を身に着けて、薄い、黒い肌着を被ったところで、ジョーカーに引き寄せられた。

「……嫌だ」
「なんだよ、つれねェな。いいだろォが」

耳元でそっと呟かれる。入り込む声が緩く鼓膜を震わせるのがどうにも不快で首を振った。「嫌だってば」肩を押すがびくともしないどころか、私が嫌がるものだから「チッ」とジョーカーは舌打ちをして、私の肩口に噛みついた。痛い。また、跡になったかもしれない。しばらくそう言う調査の予定はないしにしても、気分が良いものではない。

「本当に嫌だ。今日はまだやることあるし」
「後にしとけ、大した用じゃねェだろ」

ジョーカーは煙草の火を消して私の体に手を這わせた。折角着た服の中に手を入れられてブラのホックを外される。ジョーカーとこういう関係になったのはもうずっと前のことだ。彼が52と呼ばれていた時からで、地下に居た時から軽い触れあいなんかはあった。こういうことをする男女を恋人と呼ぶらしい。と言ったのは私だったか彼だったか。細かいことは忘れてしまったが、それなりにお互いの気持ちを確認し合って、この関係に、恋人と名前をつけたはずだ。
今でも恋人だ。ただ、目的が目的だけあって、お互いに彼だけ、私だけではなくなってしまったわけだけれど、それでも、全部を知っている恋人はジョーカーしかいない。
ジョーカーの手つきがより怪しくなっていく。

「ねえ、本当に、嫌だって」
「そうかい」
「ジョーカー」
「ぐちゃぐちゃうるせェよ」

キスは煙草の味がする。私はこれが苦手なので、煙草を吸った後にキスしないで欲しいと言ったことがある。言った時は、一応気を付けてくれていたと思うのだが、いつからか、私のその言葉は忘れ去られてしまったようだった。大したことではないと言えば、大したことではない情報だが、私はそれなりに落ち込んだ。

「ジョーカー、聞いて」
「ああ、そうだな」

イライラしているのは、私が抵抗を続けているせいなのだろう。なんだか申し訳なくって、抵抗せずに受け入れていたこともあったけれど、毎度毎度していたら私の体力がもたなかったし、無理をしてみせても私がしんどいだけなので嫌な時は嫌だと言うようになった。
でも、最近ではその主張さえ受け入れられることは稀で、今日もジョーカーは着々と準備を進めている。

「ジョーカー」
「まだなんかあんのか」
「……ジョーカー」

なにかある、なんてものじゃない。けれど、私は結局全部を飲み込んでジョーカーを受け入れた。これが最後だ。私たちはもうおかしくなってしまっていて、私はもう、ジョーカーと恋人ではいたくない。



恋人だ、と思うからいけない。
恋人関係という鎖がなによりもこの関係をもつれさせているのだと、私は最近気が付いた。
恋人でさえなければ、こんなに私は辛くない。
例えばただの幼馴染ならば、ただの目的を同じくする仲間であればこんなにしんどくならないはずだ。だって、ただの協力者ならば、好かれているのかわからないとか、何を考えているのかわからないとか、そんなこと、わからなくたっていいのだから。
恋人なんて名前がついているから、この関係は駄目なのだ。
あの後結局、何度もう嫌だと言ってもやめてくれることはなく、脱衣所で一度、シャワー室で一度、ベッドまで運ばれて更に一度した。結局ジョーカーが気の済むまで好き勝手に使われて。そう、これは、使われた、と言う。
恋人同士の甘い戯れなんかでは、決してない。
息が整ったらどうにか体を起こして、早速服を着る。「まだまだ元気そうだな?」と笑われた。笑顔は好きだったはずだが、いつからか、笑顔を見ても寂しくなるだけになった。胸があたたまるようなあの感覚は、もう、全くない。「ジョーカー」それがとても、悲しかった。

「もうこれで最後にしよう」

「あ?」ジョーカーはのそりと体を起こして頭を掻いた。私はじっとジョーカーと目を合わせて、できるだけ感情を押さえて続ける。冷静だとわかるように、極めて淡々と。

「この瞬間から私たちは、ただの幼馴染」
「ああ? なんだその面白くねェ冗談、」
「もう、恋人はやめよう」

ジョーカーはしばらく黙っていたが、ベッドから出てくると、私の正面に立って威圧するみたいに私を見下ろした。同じくらいの身長だった日々がやけに懐かしい。

「……無理矢理抱いたこと怒ってんのか?」
「怒ってないよ」

もっと言えばきっかけですらない。正確に、だから、という出来事はないのだ。一つ一つが積み重なって、いつの間にか、私一人では立ち直れないところまできていた。私だけの力ではあの、きらきらしたものを一つも取り戻すことができない。だから。「恋人をやめたいだけ」

「いきなり、なに言ってんだ」
「いきなりじゃない。ずっと言ってたよ」
「言われてねェよ」
「言ってた」
「言われてねェ」
「嫌だって、言ってた」
「それは」

無理矢理抱かれるのも嫌だ。ハッキリ拒絶の言葉を言えるのはこれくらいだったが、今日の出来事に的を絞って言えば、何故、ジョーカーよりはるかに付き合いの短いリヒトくんには「おかえり」も「お疲れ様」も言って貰えて、体調の心配や気使いまでして貰えるのに、ジョーカーからは一言もなかったのだろうか、だとか。指摘するのも馬鹿らしい。ジョーカーがこれについてどう思っているのかは知らない。よく言えば甘えられている気もするが、悪く見れば舐められているとしか思えない。私をなんだと思っているのか。付き合いきれない、とはこのことを言う。
話始めると止まらないのがわかっていたから、唾と一緒に不満を飲み込む。

「とにかく、私と別れて」

私が、冗談や遊びで言っているわけではないことくらい、わかるはずだ。お互いに何を考えているのかさっぱりわからなかったとしても、本気かそうでないかはわかる。私は本気だ。本気で、ジョーカーとの恋人関係は終わりにしたい。ジョーカーだってただの惰性で私と付き合っているだけで、本当に恋人なんてものが欲しいわけではないはずだ。

「……」
「……」

言葉はなく、私とジョーカーはしばらく見つめ合う。断られることはない、と私は思っていた。しばらく黙ってそうしていると、ジョーカーが「はー」とため息を吐いた。呆れられているようだ。なんだって構わない。別れてくれさえしたらいい。
ジョーカーは私の予想通り、それ以上なにかを尋ねてくることはなかった。

「俺と、別れるってんなら」

私の顔の横に手を付いて、思い切り首を傾けて私を覗き込む。脅すような距離だ。脅しだとしたら笑える話である。

「金輪際、ここには入れねェ」

そうか。と思った。

「それでいいってんなら、好きに」
「いいよ」

それだけだった。

「は……?」
「わかった」

問題はない。リヒトくんも反対はしないだろう。私は上手く手に入れた戸籍があるから、普通に会社員をしているし、怪しまれないように部屋も借りている。秘密基地に金輪際来られなくなったところで、問題はない。
ただ、リヒトくんには、ちょっと、手間をかけさせてしまうけれど。



私はその日の内に荷物をまとめて借りている部屋に住居を移した。
とりあえず買い出しかと荷物を置いて外に出る。途中何度かその編のベンチや公園で休んでしまいたい衝動に駆られるが、今座ったら一時間は経ち上がれないぞ、がんばれ、と自分自身に言って歩いていた。気合でなんとかなることは結構多い。
鞄の中に財布が入っていたかどうか確認していると、ふと、目の前を白い影が横切った。

「えっ?」

かなり、見慣れた、いや、見飽きた、ううん、懐かしい? 服だった気がする。私は反射でその影を追う。路地に入ったその、子ども、そう、子どもだ。私よりも身長が低い。見れば見る程知っている服で間違いないし、その背中もとても、とてもよく似ていた。

「ちょ、ちょっと待って!」

声をかけると、速度が速くなった。ここで見失うともう二度と見つからない気がして、私は必死で足を動かし、そして叫ぶ。大丈夫。追いつけるはず。私だって暗部に居たのだし、ジョーカー程ではないけどちゃんと動ける。だけどこれはどういうことか。

「そこの、白い、」

突然激しく体を動かしたのとは別の動悸がする。どくどくと心臓がとんでもない速さで血液を回す。私の意識と体のリズムがずれていて、転びそうになった。なんてことだ。すぐに体勢を立て直して声を出す。

「待ってってば!」

足が止まりかけたのは、ひょっとして。
私は背を向けたままのその子どもの腕を掴む。思ったよりも、いや、記憶よりもずっと細くて、涙が出そうになった。その男の子が振り返る。まだ、両目がある。意志の強いはっきりとした目が、混乱して、揺れている。それでも、濃い紫色はどこまでも深く、神秘的だった。

「やっぱり、君」

彼が驚いているのは、足を止めたのは、私が手を掴んだからでも、突然声をかけたからでもない。
私の声に、聞き覚えがあったからだ。

「52……?」

最初は52や私のように地下から逃げてきた子供かと思ったが、違った。
何故、一体どうして。わからない。いや、どうでもいい。彼が52本人であるのは見ればわかる。そんなことよりも確認したいことがある。しゃがみ込んで52の高さに合わせる。「52」ともう一度呼ぶ。私がわかる?

「……なまえ?」

反応で、完全にジョーカーとは違うとわかったので、ぎゅ、と52を抱きしめた。一人でいきなり地上に放り出されたのだ。きっと、不安だったことだろう。52は「なまえ」ともう一度私の名前を呼んで、長く、長く、息を吐き出した。「うん。大丈夫だよ」



一、彼は52である。ニ、彼には現在の彼の記憶がない。わかっていることはその二つだ。そして、今すぐに確かめられることはもう一つだけある。
私は52を抱えて迅速に地下に潜った。そして一直線に秘密基地に向かう。勇んで出てきたのでやや帰りづらいが、そんなことを言っている場合ではない。どこをどう見ても非常事態である。
私はわざと足音を立てて走り、秘密基地のドアを開けた。

「ジョーカーいる!?」
「なんだァ? 随分早く帰ってきやが、」

部屋の中を確認する。リヒトくんと、ジョーカーがいる。
つまり、これは三つ目の確かなことだ。
三、ジョーカーが少年に戻ってしまったわけではない。

「なんだ、そいつ」

彼がなんなのか。ジョーカーのその問いに正確に答えられる人間はきっといない。可能性の話ならばどれだけでもできるだろう。ただ。
ただ確実に言えることは、52はどこからか、ここへやってきた。それだけだ。


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